狐の声がきこえる

バスの中はすでに母や伯母、近しい親族が乗り込んでいた。弔問客の目に気を張ってきたのが緩んだのか、親族の間に流れる空気は少し気怠げで、でも落ち着いている。
「白彦くん、悟しってっか?」
「え、いや……。親父まだ乗ってないんですか?」
「さっきまでいたっけが、まーたどこ行ったんだっぺ。いねくねっちまってよー」
「……探してきます。親父見つけて車で追っかけます」
「おう、頼んだ」
呆れた表情に苦笑いを浮かべて、白彦は後ろから乗りこんだ皐月に肩をすくめて見せた。
乗り込んだばかりのバスを降りていく背中に思わず「気をつけて」と声をかけると、白彦は振り返って微笑んだ。
なぜかその笑みが遠くなった気がして、皐月は「一緒に」と言いかけた。でもそれは風子伯母の呼ぶ声にかき消された。
自分の隣の席に誘う風子伯母と、バスの乗降口で皐月の言葉を待つ白彦の間で迷っていると、白彦は「また」と柔らかく言い置いてバスを降りていった。
「邪魔しちゃった?」
こそっと風子伯母が耳打ちして、隣に座った皐月は頭を振った。
風子伯母の余計な詮索から逃れるように、頭を傾けて、ゆっくり走り出したバスの窓から広がる里山と田んぼののどかな風景を見つめた。
農道を舗装した道路はカーブや坂道が多く、どこまでも平坦なわけではない。集落からは離れた山間の町の火葬場に向けて、バスは静かにゆるゆると走った。やがて古宇里山に沿った道路にさしかかり、狐の嫁入りの列が消えた林がバスのすぐ隣に迫った。
何かを探すつもりでも、もちろん狐の嫁入りの列を見つけるつもりでもなかった。でもふと走るスピードで動く視界の中で、林の奥の方に赤い色彩が見えた。
「えっ」と息を飲んだ皐月の視界に現れたのは、傾いて朽ちかかる赤い鳥居だった。
そこに人影が見えた。
下草や笹が繁茂して、本来あった道が塞がれて人一人しか通れなさそうな奥。少し高い位置にあるらしい赤い鳥居のそばにいたのは、悟伯父だった。
慌てて体を起こし、窓にへばりついた。
流れ去る景色の中で、立って、通過していくバスを、いや皐月をまっすぐ見ていた。
とたんに背筋に悪寒が走り、心臓を締めつけられるような痛みが走った。あまりの激痛に一瞬息が止まり、ぶわっと脂汗が全身の毛穴から吹き出した。思わず目の前のバスの背もたれを掴んでうめき声が漏れそうになるのをこらえる。
「どうしたの?」
喘ぐように息をつく皐月に、うとうとしていた隣の風子伯母が異変を察知して顔をあげた。
「皐月ちゃん? え、大丈夫? 具合悪いの?」
風子伯母が皐月の肩に手を置いた。その瞬間、不思議なほどに痛みが消え、息が楽になった。
「皐月ちゃん?」
「だ、大丈夫……。ちょっと動悸がしただけ」
「動悸、って……そんな生易しいもんには」
本当に幻のように痛みは消え去っていた。無理のない表情をしているのが分かったのか、風子伯母は少し表情を和らげた。風子伯母の疑念を振り切るように、皐月は笑みを浮かべると窓の外を指さした。
「それよりもその、今そこの林のところに鳥居があって、そこに悟おじさんがいたように見えたんだけど……」
「え、悟兄さんが? ちょ、ちょっと運転手さーん、停めてえー」
皐月の言葉を聞くや否や、風子伯母が大声をあげてバスをとめた。ざわつく親族に「悟兄さんがいたみたいなのよ」と言いながら、風子伯母が急いでバスを降りて、小走りで木々の間から見える赤い鳥居の方に走っていく。
言い出した皐月も慌ててついていくと、風子伯母が道路から林の奥をのぞきこむようにした。
「いやあねえ、荒れちゃってるじゃない。最近は近所の人も面倒見てないのかしら。昔はお参りできるよう掃き清められていたと思うんだけど」
「……神社があったなんて知らなかった」
「うん、何神社って言うんだったかしら、まあ土地の神様を祀っているんだから、こんな粗末な扱いは問題だわねえ。おばあちゃんが見たら本気で怒るわ。兄さーん、悟兄さーん! いるのー?!」
さすがに薮が覆い被さりかけている道を割って入っていくほどの余裕もなく、道路から木々の奥を必死でのぞきこむ。
「悟おじさーん!」
ただ木々のざわめきと、時おり野鳥が鳴き交わす声だけが聞こえてくる。人気はない。鳥居は赤い塗りがはげて地の木目があらわになっている。石の階段は、苔とシダに覆われるようにして、ところどころ崩れている。下からは見えないけれど、山の傾斜に沿った石段をのぼった上には、きっと社があるのだろう。
こんな場所なら、狐の嫁入りが現れてもおかしくない。そんなことをぼんやり思いながら周りを見渡した。
「うーん、いないみたいね。ま、白彦くんが見つけて連れてくるでしょ」
「見間違いだったのかな……」
確かに見たはずだった。腑に落ちないまま風子伯母と来た道を引き返してバスへ向かう。
その時、背中に視線を感じて振り返った。でもそこにはただうすぼんやりとした暗さの中で草木が揺れているだけだった。
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