狐の声がきこえる
「これを見てるということは、私はもうこの世にいないかもしれないね。
皐月、仕事はどうだい? 一人暮らしは平気かい?
小さい頃から、皐月はいろんなものを引き寄せてしまいがちだからね、いろいろ人とは違う苦労をするかもしれない。母親に遠慮することも多いだろう。
でも悩むことがあっても、なんにも心配することはないよ。
万事うまくいくように、いろんなツテでお願いしておくから。
ただ大切だと思ったことは、例え母親の意に反することでも自分の手でしっかり守り通さなくちゃいけないよ。
自分の足はどこに立って、どこを向こうとしているのか、どこに向かえば幸せになれそうか。
自分の心が一番よく分かっているはずだ。
皐月が幸せになることが、結果として、皐月を想う人たちを幸せにすることに繋がるんだからね。
もし迷ったら、ここの風景を思うといい。長屋門から広がる景色や、皐月が怖い思いをした狐の嫁入りや、木や風や水や太陽とともにある営みのさまざまを。そこに呼吸を合わせて、それからここのお米や野菜を噛み締めてごらん。
きっと体の奥底で覚えている感覚が蘇って、それが自然と教えてくれるからね。
それを忘れないでおくれ」
手紙をもつ指が震え、目や鼻や胸や、あらゆる奥が熱を帯びて、決壊しそうになる。視界の文字が滲んで揺れた。
それをぐっとこらえて便箋をめくった次の瞬間、皐月は手紙を取り落としそうになった。手紙の後半が火をつけたように焦げて途中からなくなっていたからだ。封筒を開けた形跡はなかった。誰かが2枚目を燃やそうとしたように見える不自然な状態は、一気に高揚していた気持ちに水を差した。
犯人に思い当たる節はない。護伯父の仕業を疑っても理由が見えない。
急いで二枚目に視線を走らせると、祖母の言葉は、それまでの柔らかいトーンとかわって、緊張感に満ちた言い方で始まっていた。
「一つだけ、お願いがある。皐月にしか頼めない。
白彦のことだ。
あの子は皐月に出会ってから、皐月以外目に入っていない。それがあの子の境遇をどんどん窮地に追いやっているにも関わらずだ。
白彦は、自分にとって何が大切か決めている。
でもそのために、自分の命をも投げ出そうとしている。それを止めておくれ。
例えどんな理由があっても、命を投げ出すに値する理由はない。生きとし生けるもののすべて、どんな姿でもどんな場所でも、今を生きていくだけの想いを他から託されているんだよ。
私らの体も心も、たくさんの命あるものから受け継いでつくられてきたんだ。
それを置き去りにして、命を賭すということは、それ相応の因果を覚悟しなきゃならない。
あの子は、私らとは違う。私らが生きる世界よりも厳しい理の中で生きている。その因果がどんなものなのか、人の私には想像つかない。
あの子は、古宇里山の」
そこで文面が途切れ、皐月は強いられた緊張が解けたように大きく息を吐いた。あまりに内容が重く、どれから考えればいいのかさえ分からなかった。
ただそれでも知りたくて知らなかった方がよかったことに気づいてしまった。やっぱりだと。
白彦は、皐月……つまり人間とは違う。
そしてそれは、あの狐面の男の子に繋がる。繋がってしまう。
あの火葬場の裏庭での出来事がまざまざと蘇った。白彦の腕の中で震えていたあの時、皐月は確かに二人が人ではない可能性を、そして、白彦があの男の子である可能性を考えていたのだ。
怖じ気づいて、バスに白彦が同乗していなかったことに胸を撫で下ろした自分を、今は呪いたかった。
白彦は、私のためなら命などかまわない。彼なら、きっと自分の命と皐月の命を秤にかけたら、迷いなく皐月の命を生かす方を選ぶだろう。その確信は胸の奥底にずしりと響いた。
同時に、会いたいと、思った。
彼が何者なのか。なぜ皐月にここまで心を傾けてくれるのか。
皐月と出会う前、そして出会ってから、皐月が本家に遊びに行かなかった間、彼は何をしていたのだろう。どんな仕事をして普段どんな生活を送っているのだろう。何が好きで何が嫌いなのか、そんな些細なことさえ、皐月はほとんど知らない。
だからこそ余計、白彦に会いたかった。もっと白彦を、小さなことでもいい。知りたかった。
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