狐の声がきこえる
土蔵の地下
かたん、と土蔵の扉の方から音が聞こえた。現実に引き戻されて顔を上げかけて、皐月の背中が小さく粟立った。
あの子だと、直感する。
ゆっくり振り返ると、扉のそばに佇む小さな人影があった。夕日を背中に受けて、途方にくれたように悄然としている。
「どうしたの?」
問いかけて、それから自分を落ち着かせるように息を吸った。
「……きよくん」
二人の間に横たわる距離を保ったまま、その子に向けてその名前を口にのせた。それに反応したのか、狐面の男の子は俯けていた顔をあげた。狐面ばかりが白く浮かび上がって見える。
やはり、この子は、白彦だ。どんな理由があれ、白彦の、もう一つの姿。お面の下の顔も祖母の手紙も、皐月にはこの子が白彦なのだと告げられているようにしか思えなかった。
「私に、何か伝えたいんじゃないかな?」
わずかに沈黙を挟んで、彼は小さく頷いた。まるで靄の向こうにいる相手と話しているような、どこかもったりとした距離を感じる。姿そのものもぼんやりしているようで、目を凝らした。
存在が、ひどく薄い。輪郭もその色彩も、すべてが陽炎のように儚い。
土間でも、夜の庭でも、夢の中でも、その存在感は際立っていた。でも今は違った。それは良くない兆しのようで、不安が言葉になる。
「……きよくん、本家に戻ってきたの?」
聞くと、小さな白彦は間を置いて頭を振った。
「まだ戻っていない、ってこと?」
白彦はようやくというようにかすかに頷いた。頷いてから、頭を振った。
「え……? 戻ったの?」
頷きも頭を振ることもしない。狐面に開いた穴の向こうにあるはずの瞳は、見えない。
どちらなのか分からなくて、喉を塞ぐように不安の塊が大きくなった。
「きよくんに会いたいの、教えて?」
今度は、頭を振られた。目の前の白彦が何を言いたいのか分からず、焦りが募る。
「きよくんに会わなくてはならない気がするの。今すぐ」
切羽詰まった声音が、小さな白彦を怯えさせたように見えた。一歩後ずさり、その姿が大きく揺らいだ。輪郭がさらにぼやけて、異世界へ吸い込まれるように、飴色の光の中に溶けていこうとしている。
「私に何かを伝えにきたんでしょう? お願い、何か言って」
皐月は半分泣きそうになっていた。
その時、小さな白彦はしきりに頭を振りだした。どこか様子がおかしい。身をよじって、体を折り曲げるようにした。
「きよくん?」
心配になって駆け寄ろうとした時、突風が外から扉の内側へ殴りこみ、家財や床に積もっていた埃を凶器にかえて躍らせた。慌てて目や口元をかばうように覆っても間に合わず、大きく咳き込む。目が痛くなり、涙がこぼれた。
と同時に、金錆びた重い音が聞こえた。皐月がハッと顔をあげた時にはすでに狐面の白彦の姿がないだけでなく、重い鉄の扉が閉まっていた。
咳をしつつ扉に駆け寄って開けようと手をかける。
ーー開かない。
慌てて肩を当てて体を使いながら扉を押し開けようとした。びくともしない。
「嘘でしょ」
すぐち渾身の力で再び扉を押した。ただ閉まっただけなら、力ずくで開けられるはずだ。
でももし外側から閂が降りてしまっていたら。
ゾッとして慌ててスマホをとりだした。電波状況が分かるインジケーターが一本だけついたり消えたりしている。すぐに依舞に電話発信をした時、無情に圏外の表示に切り替わった。メッセージに切り替えて送信しようとしても、もはや届かない。
ため息とともに、自嘲的な笑みが知らず浮かんだ。
幼い時にも閉じ込められて、今また繰り返している。因縁めいたものを感じて、そんな自分が不思議だった。
皐月はしかたなく蔵の中を見渡した。
扉から入ってきていた陽光が遮られ、裸電球ひとつではほとんど用をなさない。家財の隙間や蔵の四隅に溜まっている闇が今にも蠢きそうに思えた。
都会の明るさに慣れ、闇から切り離された暮らしをしてきた皐月には、時間さえも吸ってしまうような闇は怖い。一筋の光もささない真っ黒に塗り込められた闇は、蔵ごと現実の狭間に落っこちた出口も入口もない一つの閉じた世界のようだった。
しんと静まり返った蔵の中で、皐月の息づかいばかりが耳の奥に響く。ほかには何も聞こえない。
護伯父がここにいることを知っているから、いずれは見つけてくれるだろう。むしろ白彦が先に気づくかもしれない。そのことだけが頼みの綱のように願った。
あまりに、静かだった。
だから皐月の呼吸以外の音がした時、すぐに顔をあげた。かさり、という紙が擦れる音だった。耳を澄まして音の出どころを探して蔵の中に目をこらすと、遠く神棚の紙垂が揺れていた。
祖母の言葉が蘇った。
「ここに一人で入ると、連れていかれる」思わず皐月が声にすると、そこかしこの闇がざわついたような気がした。増幅していく恐怖を抑え込むように膝を抱えてうずくまった。
暗闇の中にいると、自分が今蔵にいるのかどうかさえ怪しくなってくる。
紙垂がまた、ゆらゆらと揺れた。薄い灯りの中で、その白さは異様に際立つ。
風はない。でもゆらりゆらりと生き物のように蠢く様は、どこか人を惹きつけてはおれない妖しい魅力を放っていた。皐月はいつのまにかひかれるように神棚に近づき、紙垂に手を伸ばした。冷えた風が手の甲を撫でた。周りの空気が動いている。その動きの元をたどった。
行李や長持、和箪笥などかつて使われていた家財が所狭しと置かれている隙間を縫って、ひんやりと湿った空気があがってくる。その空気の強いところを探りあて、そばにある小さめの家具を動かして、スペースを空けた。そこに身をいれた瞬間、嫌な音をたてて、腐りかけの板を踏んだようにかすかに床が沈んだ。皐月が慌てて飛びのくと、長持をずらした弾みで、敷かれていた毛布がよれて下の床が一部剥き出しになった。
もはや元の柄など判別できないほど黒く汚れた毛布を大きくめくると、観音開きの地下扉が現れた。鉄で頑丈にできたフレームや把手はすでに赤錆び、板は端が朽ち始めている。
下手すれば踏み抜いていたと、皐月の背筋に冷や汗が流れ落ちた。
鍵はかかっておらず、当然ここ何年も使われていないようだった。皐月はためらいなく把手を上に引っ張り上げた。
錆で蝶番のところが動かないのか、かすかに軋んだ音をたてるだけで開かない。足を踏ん張るようにして、力をこめて把手を引っ張り上げると、バリバリッと板が裂ける音とともに木っ端と埃が舞い上がった。
片面の扉が開いて、かすかな明かりが中を照らした。滑りそうな土を固めただけの階段が下に続いている。途中から闇に埋没して、どのくらい深くまで続いているのか先は見えない。ただ饐えたような湿り気のある匂いがのぼってきて、奥の暗闇から得体の知れない、生きた気配なのかただの風か分からない音がかすかに響いてきた。
ただの地下倉庫には見えなかった。
階段の先に何があるのか確かめたい気持ちもあったけれど、さすがに明かりもない状態で降りていく度胸は皐月にはない。でも心臓がうるさいほど音を立てて、胸を騒がせる。
この先に、白彦や自分に関係する何かが、きっとある。
下の方で、ととと、と水が滴り落ちる音がした。
スマホに搭載されている懐中電灯をつけて、階段の奥に向ける。スマホの光は闇を払うように強い。それでもさらに下に溜まる闇までは届かない。
また水が落ちる音がした。その余韻の中、呼ばれた気がした。
空耳かもしれない。でも。
「……つ、き……」
風の音の隙間に、間延びしたような音で呼ばれている。
男の、白彦の声とも、全く違う女の声ともとれる、不思議な声だった。
迷いに迷って、皐月はゆっくりと足を階段におろした。足場の手堅さを確認するように何度か足で探り、さらに下の段へもう片方の足を踏み出した。
もう一段。
手で掴めるものを探すと、むき出しの土壁があるばかりだ。しかもところどころ冷たく濡れ、滑りそうだった。片手はスマホ、片手は土壁。足場は悪い。
神経を尖らせ、慎重にまた一段と足を下ろした瞬間、潤滑油でも塗られていたかのように足が滑った。声をあげる間もなく、体が浮いて視界が大きく回った。連続的に激しい痛みが皐月の背中や腕をめちゃくちゃに叩いて、息がつまった。最後に、より強い衝撃が全身を襲って息がとまり、目の裏が一瞬フラッシュでもたかれたように真っ赤に染まった。
どこが痛いと思う間もなく、視界が急激に曇っていく。ただ手を伸ばせば届きそうな距離に転がったスマホの光が周りの闇を吸い上げるように煌々と光っている。
手を伸ばして助けを呼びたいのに、身動きができない。
白彦の顔が脳裏に浮かんで、その残像に助けを求めた時、照らされた地面の縁内に、華奢な素足が現れるのが見えた。その上に揺れているのが真っ白な女物の着物の裾だと気づくまでが限界だった。
そこで皐月の意識は途切れた。
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