狐の声がきこえる

夕方と夜の移りゆく逢魔が刻の名残か、コンクリートで固められた二十畳はありそうな暗灰色の土間は、茫洋と不思議な暗さに沈んでいた。いまだにリフォームをしない土間の台所は珍しい。サンダルで降りると、ひんやりとした空気が足元を包んだ。
一瞬身を縮め、その温度も片隅に溜まる夕闇も振り払うように電灯のスイッチをいれた。
煌々とまばゆいばかりの白色の光が辺りを隈無く照らした。
「あ……、皐月ちゃん?」
低い声が少し離れたところから届き、人がいると思っていなかった皐月は小さな悲鳴をのみこむようにして顔をあげた。皐月が土間に降りるのと入れ替わるようにして、土間から上がり框に片足をかけた男の人がいた。
黒く濡れた切れ長の目がかすかに見開いた形で皐月を見ている。同時に降りかけていた依舞が、皐月とその男性にちらりと視線を走らせた。
「皐月ちゃん、……だよね? 覚えてない? 小さい頃よく遊んだ」
脳裏に狐の嫁入りの列が閃いて、それから笑い合う子どもの声がよみがえった。
「もう10年以上も会ってなかったから分からないかな、悟の息子の白彦(きよひこ)なんだけど……」
伯父の名前を出した男性は、遠慮しながらも滲み出る喜びを口元に浮かべて皐月に近づいた。
呼び覚まされた記憶の中で男の子が駆けていく。追いかける幼い皐月に振り返って笑いかける口元が、目の前のシャープな口元に重なった。
「あ、……きよ、くん……?」
「そう、思い出した? 久しぶりだね」
きよくん。
かつてそう呼んで親しんだ相手は、瞳を嬉しそうに細めて皐月の前に立った。見上げるほどに背が高く、かつての面影を無意識に探した。
祖父母の家に遊びに行くと、よく従兄弟たちが遊びに来ている時に重なった。その従兄弟の中でも年が同じだったせいか、一番仲良く遊んだ男の子がいた。
それが白彦だ。
本名、八重野白彦。
きよひこ、と呼ぶには幼い口が回らず、皐月だけ、きよくん、と呼んでいた。
田んぼや野原でかけっこしたり、虫をつかまえたり、草や花を摘んだり。子どもには広すぎて部屋の多い本家は、二人の子どもにとってかっこうのかくれんぼの場所だった。
ただその時その時に二人で夢中になって遊んだあの日々は、皐月の三十年に満たない人生の中で、なんのてらいもなく幸せだったと断言できる時間だ。それを濃く共有していた相手が彼だった。
眩しい日々が眼裏に輝いて、「きよくん、」と弾んだ声は、ちょうど座敷から彼を急かすように大声で呼ぶ声に打ち消された。
「通夜だっていうのに、喪に服すどころじゃないんだ、親父たち」
そう言って、白彦は苦笑しながら片手に掴んでいた一升瓶の日本酒を軽く掲げて見せた。酒豪でならす伯父たちらしいと口元がほころんだ。好んで飲むかどうかは別にして、母方の血を濃く受け継いだのか、皐月も依舞も酔いはしても酒に呑まれることは少ない。
「皐月ちゃん、まだこっちにいる?」
白彦は大座敷の方に視線をやった後、かすかに首を傾げながら皐月を見つめた。
黒く艶のある前髪がさらりと揺れて、ようやく目の前の白彦が、とてもきれいな男性に成長していることに気づいた。どこか人間離れした、触れてはならない気高さ、みたいなものさえ漂わせている。
「うん……、有休とったから」
なんとなく気後れして、隔たっていた年月の長さが急に皐月と白彦との間に横たわって引き離したようだった。さっきまでの懐かしさよりも緊張の方が強くなったようだった。
「じゃあ、少しは話せそうだね」
白彦がホッとしたように笑みを浮かべた。昔、遊んでいた頃によく見知った柔らかさが彼からにじみ出て、かすかに緊張がとけた。近づきがたい印象を与えても、思い出の中の白彦と変わらない部分もある。思わずホッとした皐月は、「うん」と白彦に微笑みながら頷いた。
「……髪、伸びたね」
そう言いながら白彦は眩しそうな目で皐月の髪にかすかに触れた。あまりにも自然に伸びてきた手を避けることもできず、皐月は思わず息をとめた。
「昔と変わらない、きれいな黒髪だ」
黒髪から皐月の目へと移ったその視線に、包みこむような優しい光を見つけたせいもあったと思う。急に触れられているところが熱をもち、皐月は白彦をまっすぐ見られなくなった。
その場を破るように、再び座敷から白彦を催促する声が届いた。
白彦は皐月からついっと離れると、大きな声で大座敷の方に向かって「今もってく!」と返事をした。
「また声かける」涼やかに笑って座敷へとあがっていった。その後ろ姿は、かつて追いかけて遊んだ小さな背中ではなく、すらりと背が伸びて肩幅もしっかりした大人の男性のものだ。
声をかけられるまで白彦のことをさっぱり忘れていた。どんな遊びをしたかとか、たくさんつくったはずの思い出のほとんどを思い出すことはできないけれど、ただその幼い時の楽しかったという気持ちや想いは、封印がほどけたように深いところから沸き上がってくる。自我の輪郭があいまいな子どもだったからこそ、白彦とは、より強く結びついていた。
だから皐月が東京に帰るための別れが近づくと、二人して一緒に泣いて、もっと遊ぶもっと一緒にいると駄々をこねた。二人とも泣き腫らした赤い目で、農道に立ち尽くし、皐月が乗った車をずっと見送っていた白彦の姿も、豆粒のように白彦の姿が小さくなっても後部座席の窓に張りついて、白彦を見ていた自分のことも、今ははっきり思い出していた。
そんな記憶を宝石の欠片を抱きしめるように反芻していると、軽く背中を叩かれた。
「ちょっとー、あたしのこと忘れてない?」
「えっ、あ、ごめん」
「ま、いっけどぉ。なんなのあのイッケメン。あんな人、身内にいたっけ?」
依舞が興味津々の顔をして、大座敷の方を伸び上がるように見た。
「うん、悟伯父さんとこの一人息子。小さい頃、ここでよく遊んでたんだよ。今の今まですっかり忘れてたけどね」
「ええ? あたし、全然記憶ないよ?」
「よく遊んでたのも、依舞が産まれる前後くらいが多かったしね。その後だって依舞は本家に来てもお母さんにべったりだったから。それに結局……、親戚とは疎遠になったし、ね……」
「ふぅん、そっか……」
小さな頃どんなに仲が良くても、その絆は成長とともに保たれなければ当然、脆く儚い。
素直に喜びを顔に浮かべていた白彦は、皐月と違ってまっすぐ育って来たのだろう。それに比べて、自分がかわいくなく育ったかと思うと気持ちが塞ぎかけた。
その時、依舞がキッチンのシンクに洗う器を置く音がして、皐月はハッと顔をあげた。後ろ向きになっている場合ではない。
「洗わなきゃね……、え、すごい量」
シンクを覗きこんで袖を折りながら、気合いをいれなおした。
「うん、じゃ私、空になった他の食器さげてくるから、よろしくぅ」
一緒に洗ってくれるものと勘違いして、「えっ」と声をあげた皐月に、依舞は可愛らしく片手を敬礼のように額に当てた。
「ちょ、ちょっと、依舞?!」
軽く肩をすくめて、依舞はどこか楽しげな光を瞳に宿して手のひらを振ると、身を翻して大座敷の方に走るようにあがっていった。明らかに白彦のことを探る気満々の顔をしていた。
「……もう」
しばらくは白彦の様子を伺いながら親族を接待してくるだろう。依舞は自分と違って社交性が高い。そのひとかけらでも自分にあればよかったと、皐月はため息をついた。
さきほどまで伯父たちが祖母のことを悲しんでないと文句を言っていた割には、その無邪気さが少し羨ましい。皐月にもそんな時期が確かにあったはずなのに、今はそうだった時の感覚さえも思い出せなかった。
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