狐の声がきこえる
狐面のこども

1

シンクには、通夜振る舞いの名残そのままに、茶やビールのグラス、料理を用意していた時に使った鍋やタッパーの類が投げ込まれていた。水道の蛇口をひねると、勢いよく出てきた水は切るような冷たさだ。透明な水はあっという間に洗い桶の中の器を浸していく。
白彦と会わなくなったのは、同時にこの本家に遊びに行かなくなったというのと同じだ。会わなくなって十年以上と白彦は言っていたけれど、実際は十五年にもなる。
小学五年を過ぎた頃からだった。両親の仲がうまくいかなくなり始め、中学生にあがると同時に、父と母は離婚することになった。別れるとか別れないとか、皐月たち姉妹の親権とか養育費とか、それぞれの思惑がぶつかり、日を追うごとに両親の間には喧嘩が増えていった。
振り回され、めまぐるしかったあの頃のことは、正直もうよく覚えていない。
ただ両親が揃っていても家の中の空気が重苦しく、その印象ばかりが記憶の底で澱むように残っている。その毎日の中で幼い妹の笑顔を守れるのは自分だけだと、妹の目に両親の醜さを見せまいと、皐月は必死だった。
離婚の原因が父の浮気だと知ったのは、両親が離婚した後だった。ある晩、珍しく深く酔って帰ってきた母がこぼした愚痴からだ。つきあいで飲むことはあっても、深酒することは少ない母だったから、その記憶は鮮明に残っている。
離婚するまで外に働きに出たことがなく、ずっと主婦だった母は、いきなり娘二人を抱えて生きていかなくてはならなくなった。父から定期的に振り込まれる養育費だけではとうてい足りず、しばらくはこの本家からの援助も受けながら働き口を探していた頃だったと思う。
あの時の母の父への恨み節は、今も腹の底にどんよりと残っているような気がしている。
正直、離婚前にその事実を知ってしまったら、皐月の心はもっと自暴自棄になっていたかもしれない。それを留めたのは、ただひとえに依舞がいたからだった。
母は、運よく正社員として採用してもらって毎日朝から晩まで働きに出るようになった。当然、それまでことあるごとに帰省していた祖父母の家に行く余裕などもてなくなる。皐月も母が不在の分、まだ小学生低学年だった妹の世話や家事を引き受けることが多くなり、おのずと毎日は追い立てられるように忙しくなった。だからといって、勉強も部活も疎かにはできなかった。
母は、母子家庭であることを理由に同情されることも、そのことで後ろ指さされかねないことも極端に嫌った。両親が揃う家庭と同じ水準を自らに課し、同時に長女である皐月にも課した。
いつのまにか祖母のことも、白彦のことも、息がつまって溺れそうな日常の狭間に落として遠くなっていった。
もちろん、狐の嫁入りのことも。
つらつらと思いふけりながら茶碗を洗っていたその時、ふとパンツの後ろポケットに入れているスマホが震えた。仕方なくスマホをとりだした。
神宮寺陽平。スマホの画面に映し出されたその名前に、視界が覚めるように現実に引き戻され、慌てて皐月は通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「オレ。仕事あがったとこでさ、今平気?」
「少しなら」
周りを気にして皐月は声を潜めた。
「有休とったんだって? 教えてくれりゃ合わせたのに」
どこか不服そうな声に責められているような気がして、皐月は土間の陰鬱な床に視線を落とした。足元にまとわりついていた冷たい空気がさらに温度を下げたように思えた。
「ごめん、おばあちゃんが亡くなって、それで」
「え、あー……そっか……、それは大変だな。いつ帰ってくんの?」
「3、4日くらいしたら……」
「じゃあ、帰ってくる時連絡してよ。いつもんとこで会おう」
「うん」とすぐには言葉が出ず、つまった。彼氏に会えるのに、素直には喜べない。つまり、もうそういうことなのだろうと、一抹の虚しさが胸の奥に落ちた。
「……皐月? 聞こえてる?」
「あ、ああ……うん、聞こえてる」
「なんだよ、どうしたんだよ? 会えないの? 会いたくないの?」
「そんなことないよ。久しぶりだし、会いたいよ」
希薄になっていく現実の向こうで、上滑りした言葉が反射的に答える。ホッとしたような陽平の気配を感じて、少しだけ気持ちが震えた。
とたんにスマホの向こう、遠くから陽平の名前を呼ぶ女性の声が響いた。甘えの滲んだ声は、たぶんいつか見たことのある女性だろう。胸の奥が鷲掴みされたようにきしんで、陽平の反応に切なく震えた自分の気持ちを握り潰したくなった。
「悪い、友達待たせてんだ、また」
友達と言いながら慌てて切られた通話の向こうで、通じなくなった音が鳴り響いた。それを消すと、暗くなった画面と無音が一人きりの台所に落ちた。
自然とため息がこぼれた。いつまで嘘で塗り固め続けるのだろう。
今考えるには重すぎることに蓋をして、再び食器洗いを開始した。
見たくない現実ばかりがのしかかって、気持ちがどんどん落ちこんだ。苦い気分に水の冷たさが加わって、それを振り切ろうと、茶碗を洗う手つきが少し乱暴になった。それを嫌がるように、ふいに茶碗が手の中から滑った。
声を上げる間もなく、土間のかたい床に向かって茶碗が落ちていく。その動線が見えるのに、指の一本さえも動かせないまま、皐月は茫然と見送った。
弾けるように陶器でできた茶碗は割れて、灰色の土間に白い欠片が飛び散った。
「あー……」
大きく息を吐きだす。割れた茶碗からこぼれた水が土間に黒い染みをつくった。皐月はのろのろと土間にしゃがみこんで、欠片に手を伸ばした。
その時、ふと開け放したままの勝手口から伸びる細長い人影に気づいた。
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