狐の声がきこえる
過去の記憶2

四つ足の獣の子がおずおずと生の鶏肉に鼻面を近づけて匂いを嗅いだ。その小さな動きだけでも嬉しくて、獣の子がしばらく生肉を食べられるか確認している姿をじっと見つめた。皐月がしばらく唐揚げを我慢することを条件に母からもらった鶏のもも肉だ。それを目の前の動物が食べてくれるのだけを願った。
頑なに檻にしがみついて獣の子をかばう皐月に根負けして、祖母が祖父を説得する形で捕えた獣を解放した。毛布にくるんだ檻を長屋門のそばに置いて、祖父は最後までしかめ面のままさっさと母屋へと戻ってしまった。
毛布を取り払うと、白日のもとに獣の正体がさらされた。すらりとしたキツネの子だ。キツネの子は外の強い光に始めは戸惑って檻の中でぐるぐると回った。生肉を檻の前に置いて扉を開けても、警戒心をむき出しにして、檻から出てこようとはしなかった。
獣の身体は、数日間檻の中に閉じ込められて薄汚れ、ストレスでぼさぼさだった。しかも何度も檻に体当たりしたらしく、檻の網にも毛にも赤黒い血の塊がこびりついている。それでも元は十分に白かったのが分かった。
キツネの子が檻から出てくるまでその場でしゃがんで待ち続けて一時間、ようやく空腹に耐えかねたキツネが生肉に近づいたのを見て、皐月はホッとした。しきりに生肉の匂いを嗅いでは離れ、それでも去ることができるほど本能を抑えきれもしない姿は、やせ細り、幼い心にも哀れだったからだ。
皐月はその場から動かず、その獣の様子を観察した。
そのやせた体についている、ふっさりと太い尻尾に気づいたのはその時だった。祖父が言っていたように二本に裂けている。そのキツネを、祖父たちがお狐さんと呼んでいるのは幼い皐月には知るよしもなかった。ただ怪我でもなく、ごく自然に尾のつけ根から分かれていた。皐月にはそれが不思議で、それまで近づかずに我慢していた皐月は思わず一定の距離をあけるのを忘れて一歩踏み出した。
それを敏感に悟って、獣は唸り声とともに素早く飛びのいた。その俊敏さに驚いて、皐月はその場に尻餅をついた。キツネは離れたところで威嚇するように、低く唸り声をあげ、毛を逆立ている。それでも放り出してしまった鶏肉を気にしている。それほどに空腹なのだ。
皐月はキツネの子を刺激しないようにその場からゆっくり離れ、距離を置いて座りこんだ。黙って見ていると、キツネの子は皐月をちらりと見てから、おそるおそる鶏肉に近づき、咥えた。
ようやく空腹を満たせる。
獣の気持ちが手に取るように分かり、自分のことではないのに嬉しくなった皐月を、キツネの子は黄金の輝きをたたえた瞳でじっと見つめ、それから興味を失ったように向きを変えて田んぼのあぜ道に降りた。
「あ、待って……!」
立ち上がって追いかけた時には、キツネの子は軽快に山の方へと走り去ろうとしていた。薄汚れた白にしか見えなかった毛が太陽の光の下では、銀色を帯びて煌めいた。
「今度は見つかっちゃダメだよーぅ」
語尾がこだまするように反響した。叫んだ言葉が獣に届いたのかは知らない。
でも幼い皐月は長屋門からただずっと、キツネの子が消えた山の方を見つめていた。
これが皐月と白彦の最初の出会いだった。
あのキツネの子がもつ金の瞳を白銀の毛並みを、今の皐月が見間違えるはずはなかった。土蔵の中で初めて出会ったあの時、白彦にとって皐月は初対面ではなかった。
彼は人の姿をとって、皐月に、会いにきた。
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