狐の声がきこえる

次に目の前をよぎった映像は、ごつごつした岩肌が視界いっぱいに広がるものだった。そして自分が幼い手をのばして掴んでいるものは、やはり同じ幼い手だった。崖の上で腹這いになって、皐月は泣きながら白彦の手を掴んでいた。遊びに夢中になって、下生えの草葉に隠された崖の縁を見誤ってしまった。
「絶対手を放しちゃダメだよ」
切れ切れに言葉をかけると、焦りと泣き出しそうな顔で白彦は目で頷いた。
でも限界は近かった。皐月のたった一本の腕は、白彦の幼い体を支えるにはひ弱すぎた。少しずつ白彦の体の重みで、皐月もまた崖の淵へとずり下がってきていた。
一瞬視界に入った足下の崖の底には、細い川が見えた。落ちれば、擦り傷どころではなく、命すら危うい。
どうすることもできないまま、白彦が苦しそうに呻いた。
「さ、皐月ちゃん、手、手を離して」
「やだ、きよくんが」
「でも、この、ままじゃ、二人とも」
頭をかすかに振った。わずかな動きも支える右腕の痛みと、白彦の命とりになりそうで歯を食いしばった。
「僕、は、大丈夫、だから」
「だ、めな、の」
白彦が手を離そうとしたのが分かり、「ダメ!」と叫んだ瞬間、手元の崖の一部がわずかに崩れた。皐月の体が支えを失って、一気に決壊したように崖を滑った。皐月の視界が一気にさがって、悲鳴とともに無我夢中で手をかいた。触れたものが何かも分からず掴み、大きく体が回転した。断崖の岩場から飛び出ている木の根を掴んでいた。それが、皐月と白彦の命綱だった。
「もう、もう、いいんだ! 手を離せ!」
絶叫するような言葉に驚いた瞬間、白彦の手が抜けた。
「きよくん!」
スローモーションを見ているように落下する白彦に、皐月は後先のことも考えず、木の根から手を離した。白彦が驚愕した顔で皐月を見上げているのが見えた。
視界にうつる景色がいっそう鮮やかに見え、耳に届く音が、木々の呼吸さえも不思議なほどはっきり聞こえ、空気を満たす土や風や水の匂いが強くたちあがってきた。あらゆる神経が覚醒したかのようにはっきりしていた。
両親のことも祖父母のことも、さらには恐怖すらも頭から消え、ただ、白彦に向かってまっすぐ飛びこんだ。
白彦が間髪入れずに、皐月に手を伸ばした。その目が金色に光って、そして、耳が大きく尖り、ヒゲが伸び、顔の形が変わったのは、幻ではなかった。

落下の途中で、気絶していたのだと思う。
汗と土と木の匂いに包まれて、なんだか安心していたことを朧げに思い出しながら、皐月はふっと目を開けた。気づくと、心配と不安で顔をぐしゃぐしゃにした白彦が皐月をのぞきこんでいた。
「よかった……!」
膝に揃えて置いた小さな拳に我慢しきれない涙がぽたぽたと落ちているのを見て、皐月は体を起こして白彦の顔をのぞきこんだ。
「きよくん、大丈夫?」
ぐっとつまった顔で、白彦の唇が震えた。それを隠すようにうつむいても、その頰をこぼれ落ちる涙の量が増え、何かに耐えているように見えた。
「どっか痛い?」
落ちたことがとても怖かったのかもしれない。そう思って、転んだ時にいつも母がしてくれるように、白彦の震える体を抱きしめた。びくりと強張ったその小さな背中をゆっくり、ぽんぽんと一定のリズムでたたいた。
「ママがね、こうすると怖いの、どっかいっちゃうんだよって。そういうのは、全部、心がしくしくしてるからなんだって」
白彦が小さく息を吸い込んで、頷いた。
「ぼ……僕よりも、皐月ちゃん、皐月ちゃんは?」
真っ赤な目で皐月を見た白彦に頭を振って「どこも痛くない」と答えた。
見上げると、高い位置に崖が見え、横を川が流れている。今いる崖下の岩場に直接落ちたなら、明らかに生きてはいない。
白彦をもう一度見た。
濡れている頰もその瞳も、気を失う前に見た形の片鱗はなかった。じっと白彦の顔を見る皐月に、白彦は気まずそうに視線をそらした。
「……その、落ちる途中で、うまく、枝に引っかかったみたいで……」
皐月が問いもしないのに、白彦は口の中で言い訳するように言って黙りこんだ。引っかかったという枝など見えない。なにより子どもでも、崖から落ちればかすり傷で済まないことくらいわかる。
皐月は白彦の顔をまじまじと見て、首を傾げた。
「おヒゲ、生えてたね?」
弾かれたように白彦が立ち上がった。そむけた顔は青ざめている。
「あ、あれは、違う、僕じゃなくて、ヒゲとか耳とか、そんなキツネみたいな」
墓穴を掘ってることにも気づかないほどに、かわいそうなほど動揺して、白彦は強く否定した。
「なんで、嘘つくの?」
白彦にとって、そのことがどれだけ大きなことかも分からず、幼い皐月は嘘をつかれたことのショックにムッとしていた。
「なんで?」
容赦なく畳み掛ける皐月に、白彦が呻くようにして言葉につまった。
皐月は黙ったまま白彦を見つめ、白彦は激しく葛藤して黙っていた。その沈黙はあまりに静かで、白彦はついに耐えきれないように大きくため息をついた。それでも何かに迷っているように視線を皐月にとめたと思えば、横の川や崖の上にうろつかせたりした。びくついているような怯えているような様子に、皐月は思い出しながら口を開いた。
「あの檻の中の子だよね?」
白彦が表情を強張らせて、今度はしっかりと見た。
「……なん、で」
「よかった。ずっと心配してたんだよ。ちゃんとけがとか治ったかなあって。だからまた会えて嬉しい」
嬉しさににっこり笑った皐月に、白彦は信じられないという顔をした。
「ま、待って。どうして? どうして分かるの?」
「分かるよ」
「なんで……」
「だって、同じだもん」
「同じ?」
「きよくんが人でもキツネでも、同じきよくんでしょ?」
混乱していた白彦が軽く目を見張った。
「……僕、がこわくないの?」
「こわくない」
「ずっと人間のふりして、皐月ちゃんのこと騙してたんだよ?」
「でもきよくんはきよくんだよ。キツネでもなんでも、きよくんだよ」
「人間じゃないんだよ?」
「うん、それでもいいよ」
「悪いやつかもしれないんだよ?」
「そんなことないよ。知ってるもん、きよくん、おばあちゃんの手伝いたくさんしてるの。田んぼとかお台所とか、おばあちゃん、たすかってるって言ってた」
「あ、あれは、……その、いたずらした罰だよ」
白彦の顔ににじむ喜びと照れ、そして戸惑い。その色を浮かべた金色の瞳の目元を、白彦は乱暴に腕で拭った。
「皐月ちゃん、すごいね」
「どうして?」
「人って理解できない存在は認めないんだと思ってた」
白彦の言葉の意味が分からず、首を傾げた。白彦は「なんでもない」と頭を振ると、恥ずかしそうに笑った。
「僕、会えたのが皐月ちゃんで本当によかった」
「私もきよくんに会えてよかったよ?」
その手をとって、改めて「助けてくれて、ありがとう」と笑った。
「皐月ちゃん……」
「さっきの、ひみつ?」
白彦の顔をのぞきこむと、白彦はこくりと頷いた。
「じゃあ、ゆびきりげんまん」
小指を差し出すと、白彦は不思議そうに皐月の小さな指を見つめた。ゆびきりげんまんが分からないのだと気づいて、手をとった。それから白彦の小指に小指を絡めた。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーらはーりせーんぼんのーます、ゆーびきった!」
歌う間に、白彦の顔がみるみる強張った。
「さ、さ、皐月ちゃん、これ、この歌、ほんと?」
「うん、だから約束」
無邪気な皐月に、白彦はショックを受けたような顔のまま結んだばかりの小指を見つめた。
「僕……も、約束する」
そう言って決然とした表情で、皐月を見た。
「絶対、皐月ちゃんのこと、命にかえても守るよ」
白彦が小指を差し出した。
「約束」
白彦の表情の奥に隠された覚悟も分からず、皐月はただ嬉しくて素直に小指を差し出した。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーらはーりせーんぼんのーます、ゆーびきった!」
白彦がにっこり笑った。その笑みはどこまでも晴れやかで、皐月は一瞬にしてはちきれそうになった喜びをもてあまして、思わず白彦に抱きついた。
「きよくん、だーいすき」
恋愛の好きではなくても、幼い女の子のまっすぐな想いに白彦が真っ赤になって、口の中で何かもごもごと言った。
聞き逃して、一歩離れた皐月は白彦の顔をのぞきこんだ。
「なんて言ったの?」
白彦は真っ赤な顔を背けて、頭を振った。
「な、なんでもないっ!」
「そうなの?」
「う、……な、なんでもなく、ない……」
「きよくん?」
「ぼ、」
「ぼ?」
「僕も、その、す、好きだよ……」
一生懸命言葉を押し出した白彦に、皐月はにこにこしながら大きく頷いて、手を差し出した。その手を白彦が、ためらって、それからしっかりと繋いだ。
ここまでなら微笑ましい思い出ですんでいたかもしれない。でも記憶はそこで終わらなかった。
皐月の手を繋いだまま、白彦は皐月の顔をのぞきこんで何かをつぶやいたように見えた。直後、幼い皐月はまるで突然眠りに落ちたかのように白彦の腕に崩れ落ちた。
「ごめん、掟は破れないんだ……。でも、約束したことは絶対守るよ……」
どこか哀しみを滲ませたその言葉に、皐月はああ、と納得した。
きっとこれまでずっと、白彦は人にはない超常的な力を使って、自分から白彦の正体にまつわることを隠してきていたのだ。知らなければ近づくこともなく、危険にさらされることもない。祖母と約束したことを守り、細心の注意を払って皐月にその世界に踏み込ませないようにしてきたのだろう。
いつだって、祖母も白彦も、皐月のことを守ってくれている。
そう思った時、ずきりと、胸の奥が疼いた。
忘れさせられていた記憶もあるけれど、決して忘れられない記憶もある。
痛みを堪えるように、目を閉じた。眼裏によみがえるのは、中学にあがったばかりの、あの、梅雨が明けぬ薄曇りの日。重たい空からは、今にも雨が落ちそうで、湿った匂いが辺りを覆っていたのを思い出す。祖母を傷つけ、そのまま別れることになったあの日を。
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