狐の声がきこえる
「……ごめんね」
泣き止んだ後の恥ずかしさよりも、今の皐月が伝えられる精一杯の言葉をずっとそばについていてくれた白彦に告げた。
「謝ることないよ」
ただ静かに答えた隣を、その日初めて見あげた。
庭を見つめる横顔は、まるで月のように冴え冴えと張りつめて、どこか孤高の気高さが滲み出ていた。幼い頃は無邪気で時々意地悪で、でもいつだって優しい目で皐月を見つめた。その白彦とは違う横顔に、胸を突かれた。
「やっぱりさ、スイカ、食べない?」
皐月の視線にすぐ気づいて振り向いた白彦の顔は、すぐ見慣れたものに戻っていた。
「さっきの縁台で待ってて」
皐月の返事も待たずに、白彦は立ち上がって母屋の方に走っていく。
皐月はこわばった体をほぐすように立ち上がって、縁側に歩いていった。縁台に腰かけると、どっと疲れが出て、俯いた。
このまま消えてしまいたいと、ふとそう思った時、名前を呼ぶ声がしてのろのろと顔をあげた。スイカを乗せた盆を手に白彦が息を弾ませて立っている。
「皐月ちゃんには、絶対食べてもらいたかったんだ。おばあちゃんと僕がつくったスイカ」
祖母という単語に、刺すような痛みが胸の奥に走った。
「すごく甘くできたんだよ。食べたらきっと元気になれる。スイカ自身もね、皐月ちゃんに食べてもらえる時を待ってたんだから」
白彦はまた隣にするすると座ると、スイカにかじりついた。変なことを言うと頭の隅で思いながら、その咀嚼音につられて、皐月も受けとった真っ赤な果肉の、三角の頂点に歯を立てた。
滴り落ちるほどの果汁と爽やかな甘さが口の中に広がった。夏の日陰を食べているような咀嚼音が響くたび、泣いて空っぽになった皐月の気持ちが、少しずつ潤っていくみたいだった。
それと同時にまた、ぽろぽろと涙がこぼれてきて、口に入った。そのせいで、甘いのかしょっぱいのか分からなくなった。
「大丈夫だよ」
誰に言うとでもない小さな呟きが耳に届いた。
「大丈夫。そばに、いるよ」
そう呟いた白彦は、スイカを、しゃく、とかじった。
いつか、この未熟さも、無力さも、感情の醜さもなにもかも、人を傷つけずに折り合える時がくるのだろうか。
小さく頷いて、皐月は流れる涙を拭うこともせずにスイカをかじった。
お互いのスイカをかじる咀嚼音だけが、延々と夏の隙間を縫うように蒸した空気の中に流れていった。
結局その後、祖母に会うことはなかった。謝るきっかけを探すうちに祖母は外出し、その状態のまま私は本家を後にすることになったからだ。長屋門の外で、皐月と依舞が乗る車が去るまでずっと見送っていた白彦のほかに、皐月たち三人を見送る人はなかったと思う。
一言、なんですぐに謝りに行かなかったかと、今はただ後悔ばかりが先に立つ。両親離婚後の生活の忙しさにまぎれて、祖母と顔を合わせることがあってもうまく言い出せないまま機会を逃し続け、時ばかりが淡々と過ぎた。
大学生にもになれば自分一人で訪れることもできただろう。なのに皐月はそうしなかった。歳月が祖母との間を隔てれば隔てるほどに、皐月の足は本家に向かなくなった。糊塗して隠してきた自分の醜さをさらけだした白彦にも会わせる顔がなかった。勉強が、卒論が、仕事が、そう言い訳にして向き合わなくなった。
いつかまた祖母に謝る時が訪れるにちがいない。そんな楽観を打ち砕いたのは、母が震える声で寄越した一本の電話からだった。
祖母の訃報だった。
病気とか危篤とか、そんな前触れもなく、本当に突然逝ってしまった。祖母に謝る機会を永遠に失ってしまったのだと気づいた瞬間だった。
泣き止んだ後の恥ずかしさよりも、今の皐月が伝えられる精一杯の言葉をずっとそばについていてくれた白彦に告げた。
「謝ることないよ」
ただ静かに答えた隣を、その日初めて見あげた。
庭を見つめる横顔は、まるで月のように冴え冴えと張りつめて、どこか孤高の気高さが滲み出ていた。幼い頃は無邪気で時々意地悪で、でもいつだって優しい目で皐月を見つめた。その白彦とは違う横顔に、胸を突かれた。
「やっぱりさ、スイカ、食べない?」
皐月の視線にすぐ気づいて振り向いた白彦の顔は、すぐ見慣れたものに戻っていた。
「さっきの縁台で待ってて」
皐月の返事も待たずに、白彦は立ち上がって母屋の方に走っていく。
皐月はこわばった体をほぐすように立ち上がって、縁側に歩いていった。縁台に腰かけると、どっと疲れが出て、俯いた。
このまま消えてしまいたいと、ふとそう思った時、名前を呼ぶ声がしてのろのろと顔をあげた。スイカを乗せた盆を手に白彦が息を弾ませて立っている。
「皐月ちゃんには、絶対食べてもらいたかったんだ。おばあちゃんと僕がつくったスイカ」
祖母という単語に、刺すような痛みが胸の奥に走った。
「すごく甘くできたんだよ。食べたらきっと元気になれる。スイカ自身もね、皐月ちゃんに食べてもらえる時を待ってたんだから」
白彦はまた隣にするすると座ると、スイカにかじりついた。変なことを言うと頭の隅で思いながら、その咀嚼音につられて、皐月も受けとった真っ赤な果肉の、三角の頂点に歯を立てた。
滴り落ちるほどの果汁と爽やかな甘さが口の中に広がった。夏の日陰を食べているような咀嚼音が響くたび、泣いて空っぽになった皐月の気持ちが、少しずつ潤っていくみたいだった。
それと同時にまた、ぽろぽろと涙がこぼれてきて、口に入った。そのせいで、甘いのかしょっぱいのか分からなくなった。
「大丈夫だよ」
誰に言うとでもない小さな呟きが耳に届いた。
「大丈夫。そばに、いるよ」
そう呟いた白彦は、スイカを、しゃく、とかじった。
いつか、この未熟さも、無力さも、感情の醜さもなにもかも、人を傷つけずに折り合える時がくるのだろうか。
小さく頷いて、皐月は流れる涙を拭うこともせずにスイカをかじった。
お互いのスイカをかじる咀嚼音だけが、延々と夏の隙間を縫うように蒸した空気の中に流れていった。
結局その後、祖母に会うことはなかった。謝るきっかけを探すうちに祖母は外出し、その状態のまま私は本家を後にすることになったからだ。長屋門の外で、皐月と依舞が乗る車が去るまでずっと見送っていた白彦のほかに、皐月たち三人を見送る人はなかったと思う。
一言、なんですぐに謝りに行かなかったかと、今はただ後悔ばかりが先に立つ。両親離婚後の生活の忙しさにまぎれて、祖母と顔を合わせることがあってもうまく言い出せないまま機会を逃し続け、時ばかりが淡々と過ぎた。
大学生にもになれば自分一人で訪れることもできただろう。なのに皐月はそうしなかった。歳月が祖母との間を隔てれば隔てるほどに、皐月の足は本家に向かなくなった。糊塗して隠してきた自分の醜さをさらけだした白彦にも会わせる顔がなかった。勉強が、卒論が、仕事が、そう言い訳にして向き合わなくなった。
いつかまた祖母に謝る時が訪れるにちがいない。そんな楽観を打ち砕いたのは、母が震える声で寄越した一本の電話からだった。
祖母の訃報だった。
病気とか危篤とか、そんな前触れもなく、本当に突然逝ってしまった。祖母に謝る機会を永遠に失ってしまったのだと気づいた瞬間だった。