狐の声がきこえる
後悔や怒りや哀しさや、せめぎ合う感情をコントロールできず、その衝動が突き動かすままに、やたら部屋数の多い母屋の長い廊下を歩き回った。その無意味に多く見える部屋数さえも苛立ちに拍車をかけた。人に会いそうな居間や土間を避けているうちに、皐月はめったに入らない奥座敷へと迷いこんでいた。
手当たり次第に襖やドアを開けてのぞくのも倦んだ頃、ひときわ大きそうな座敷の襖を開けた。その部屋はたくさんの書棚と古そうな書物が積み上がっている、いわば書斎のようだった。めったに人が訪れないのだろう。黴や埃、饐えた匂いが、中に入るのをためらわせた。
その時、ごそごそと平積みされた書物の間が動いた。驚いて息を飲んで見ていると、祖母の姿が現れた。すぐに皐月に気づいて、祖母は老眼鏡をずりあげながら「こんなとこよっぐわがったなぁ?」と声をあげた。
「……別に」
今は、誰の顔も見たくない。立ち去ろうとする皐月の気配を察した祖母は、腰をさすりながら中に入るよう促した。渋々一歩だけ座敷内に入り、皐月は襖近くの漆喰の壁に寄りかかった。
「この歳になるとダメだなあ。ちいせぇ文字が見えねえべ、仕事がちっともはかどらねえ」
祖母はのんびりと言って、うず高い書物の波の間から出てきた。
「休憩いれっから、ちっとばあちゃんにつきあいな」
姉さん被りしていたてぬぐいを外して、祖母は脇におしやっていたらしい座卓の上の茶櫃を開けた。茶を淹れようとしている祖母の様子に、手伝いたい気持ちと、今は誰とも口をききたくない気持ちが交互に頭を出して、結局皐月は身動きできずにじっとしていた。
「皐月、さっきお母さんからお父さんとのこと聞いたよ」
どきりとして、祖母の表情を窺うように盗み見た。
「お母さん、いろいろ原因だの理由だの言ってたっけが、まあ、ああゆうもんはどっちが悪いとかでねえ。はじめっからそういう縁だったっつうことだ」
祖母は、急須から二つ並べた湯のみにお茶を注ぎながら言った。
「縁ばっかりは、人がどうこうできるもんでねえっぺよ。これはもう私らの力及ばんとこで決められているもんだがら」
「……だから何?」長々とした話になりそうで、遮るように言葉を発した。
「んだから、ばあちゃんの時代さ違って、自由にできた分だけ、引き受けなきゃいけねえ代償もおおきかんべ」
湯気があがる片方の湯のみを皐月のそばに置いて、祖母はその場に「よっこらせ」と腰を下ろして茶をすすった。
「東京じゃどうだかしんねえが、こういう土地じゃ口さがないもんもおるし、自然と肩身は狭くなる。辛いことの方が多いだろう。そういう時、最後に頼れんのは、血を分けた母娘だ。皐月にすりゃ、辛抱ばかりかもしらん。でも依舞はまだちいせえしな……。お母さんをしっかり支えられんのは皐月だけだ。だから助けてやってくれな」
そう言って、祖母はまた茶をすすった。
これから大変なのは、皐月と依舞を抱えて生活していかなくてはならない母だ。それは、言われなくても分かっている。そう言うつもりだった。母の苦労は、目に見えて分かっていると。でも口からこぼれた言葉は。
「……そんなの勝手じゃん」
祖母が湯のみから顔をあげて、しわに埋もれた目の奥から皐月を見た。
「親の都合を子どもに押しつけて、辛抱してくれとか、助けてあげろとか、意味分かんない」
こんなことを言いたいんじゃなかった。でも白彦の時といい、今といい、自分が自分じゃないみたいにイライラして、頭の中が沸騰して、真っ白になっていた。
「だいたいさ、おばあちゃんはいいよね、こんな大きな家に住んで、ただ人にああだこうだ言うだけなんだから。そんな人にさ、私の気持ちなんて分かりっこないし、指図もされたくない」
「皐月」
「お母さんとお父さんの喧嘩のたびに依舞は泣くし! 家ん中はどんどん汚くなるし! いつもどっちかが怒鳴って、近所のおばちゃんには哀れんだ目で見られるし! お弁当だって私! 洗濯だって茶碗洗いだって! 辛抱ならもうずっとしてきた!!」
「皐月、落ち着け、な? 茶ぁでも飲んで」
立ち上がって近づいてこようとする祖母を避けるように、皐月は後ずさった。
「だいたいさ、私はお父さんとお母さんの愛の結晶だったんじゃないの!? ずっとそう言ってきたくせに!」
「皐月」
「結婚が失敗だったって言うなら、私はなんなの!? お母さんとお父さんの子どもに生まれたくて生まれたわけじゃないじゃん! いっそのこと死んじゃった方がマシだよ!」
「皐月!」
祖母がひと際高く皐月の名を呼んで頰を張った。
「人の生き死にに関わることを勢いのまま口にすんじゃね!」
痛みだけではなく、祖母が皐月を張ったことにショックを受けて、呆然と目の前で厳しい表情の祖母を見た。今まで祖母に手をあげられたことはなかった。
「……そんなの、そんなの私の勝手じゃん! 生きようが死のうが、私の命なんだから、私の自由でしょ!」
「皐月!! 命はその人だけのもんじゃねえ」
「もううっさいな! お母さんもお父さんも、勝手なことばかり!」
激昂のおさまらない皐月の勢いに怯んだ祖母に、さらに追い打ちをかけるように口走った。
「おばあちゃんだって、お母さんのことばかりで、私がどんな気持ちで毎日過ごしてきたかなんて考えてくれないくせに! どうせ私は失敗した結婚の結果でしかないんだから!」
そう叫ぶと、皐月は座敷を飛び出した。方角も分からないまま、感情にまかせて廊下を踏み抜くように早足で歩いた。毎日ぎすぎすして、神経を張りつめなくてはならないような家の中も、そうした両親も、そして逆に対極にあるようなこの本家ののんびりした雰囲気も、祖母も何もかも振り切って、今を抜け出したかった。
でも今思えば、あの時ほんの少しでも冷静でいられたら、あのまま祖母と別れるなんてことはなかったろう。
勢いのままカンナの鮮やかな花が咲く庭先まで走ってきた皐月は、あがった息をなだめるために膝に手をついた。じっとりと重い梅雨の空気が、背中や肩にのしかかってくるようだった。
どこかに行ってしまいたくて、今いるここ以外のどこにも行けなかった。そんな自分が、ますます惨めだった。崩れるようにその場にうずくまった。
「もうやだ……」
なにより嫌なのは自分だった。八つ当たりでしか、今の自分を保てない、そんな自分が。
その時、背後から地面を踏みしめる音が聞こえてきて、皐月は全身の神経を尖らせた。
「……皐月ちゃん」
白彦の手のひらが、そっと背中に触れた。
学校のクラスメイトのもの言わぬ同情の目が思い出された。頭もいい、スポーツもできる。でもシングルマザーらしいよ。そう囁かれていたことなどとうに知っていた。
皐月は身を守るように頑なに体を縮こめた。
「大丈夫だよ、いつかよくなる」
上から降ってきた声は、言い聞かせるように穏やかだった。だからこそ逆に、自分の汚さや醜さが引き立てられて、苦しさのあまり吐き気すら覚えた。
「抑えなくていい」
白彦は静かに諭すようにさらに言葉を重ねた。
「吐き出していいんだ」
涼しい風が吹いて、庭の草木がこすれあう音がした。
「僕が、受け止めるから……」
囁きに近い声で、白彦はそう言うと口をつぐんだ。
背中から伝わる温度に解かれるようにして、抑えていた嗚咽がもれて、大きくしゃくりあげた。誰かにそう言ってほしかったと気づいた時には、涙がどっとあふれ、うわあっと泣き声が喉からほとばしっていた。自分でももてあましていたあらゆる感情をのせて、皐月は、ただその場で泣き続けた。
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