狐の声がきこえる
ドアのところに誰かが立っている。
田舎だからか、普段から外と接するドアや玄関に施錠する習慣がない。開け放したままなんてざらだ。防犯のために施錠が推奨されるようになっても、長年の習慣はなかなか抜けない。のんびりした気風は構わないけれど、都会育ちの皐月には落ち着かない。
「何かご用、」と問いかけながら顔をあげかけた先に、子どものふっくらした足が見えた。
そこに、まだ小学校低学年くらいの男の子が、立っていた。
それだけなら驚くくらいで済んだろう。でも皐月は小さく悲鳴をあげかけて、目を見張った。
顔の上半分を覆う、狐の半面。
昔ながらの張り子の面は、白塗りに朱の模様が際立ち、目の周りが金色で縁どられていた。まるで祭りが始まる夏の宵にいつのまにか紛れ込んだような錯覚を覚えて混乱する。
どこかで出会った気がしたのは気のせいだったか、すぐに我にかえった。
今、皐月がいるのは祖母の葬儀という大事な時だ。いたずらにしてはたちが悪い。注意しようとして、その子が半ズボンの素足に藁で編まれた草履を履いているのに気づいた。
今度こそ本当に言葉を失った。
通夜客が連れてきた子どもにしては異様ななりだ。
しかもその狐面の目の奥からじっと皐月を見つめる視線は強すぎるほどだった。
狐の嫁入りを見た時のような恐怖がよぎった時、男の子はくるりと身を翻した。
「あ、ちょ、待って……!」
茶碗の欠片を拾うことも忘れて、理由が分からない焦燥感に背中を押されるように皐月は土間を飛び出した。
狐面の男の子は母屋の脇を回って黒く炭焼きされた板塀に沿って走っていく。
サンダル履きのせいで走りにくく、思うように狐面の男の子に追いつけない。かといって見失うわけでもない。まるで皐月が彼の姿を見失わないように、でも決して捕まえることができないように、敢えてそのスピードを保っているかのようだった。
視界の隅に小さな背中を捉えながら、ツツジのそばを通り過ぎて建物の角を曲がった。
そこにふいに現れたのは、薄闇に包まれた裏庭だった。沈みかけた太陽のかそけき光に手をのばすみたいに、そこここの暗がりに背の高い草が沈んだ世界で風に揺れている。
そして男の子の姿は、まるで攫われたようにかき消えていた。代わりに母屋の濃い影に隠れるようにして、漆喰が剥げかけた土蔵が建っていることに気がついた。角の部分など土壁が剥がれ落ちて芯材や木組みがむき出しになっている部分もあるほど、古い。
記憶の中に、この土蔵の印象はない。
静まり返った裏庭の空気を吸い込むようにして、荒い息を整える。
追いかけていた男の子の姿を目の端でなんとはなく探しながら、皐月は誘われるように足を踏み出した。
おそらく人が定期的に通っていたのだろう。土蔵の入り口へ、雑草をのけたように人ひとり通れるほどの道が一筋できている。足首を細い葉がくすぐる中を歩き、土蔵の前に立った。
民家の二階ほどの高さはないのに、大きい印象を与える。その正面、コンクリートの階段を三段のぼったところに、錆びの浮いた重そうな鉄の扉が開きかかっていた。鍵はかかっておらず、わずかに開いている。無理に体を押し込めば、子ども一人くらいは中に滑り込めそうだった。
隙間から覗くと、高窓から差すうっすらとした琥珀色の光に中の様子がほのかに見えた。皐月が身動きした気配で風でも起きたのか、斜めに走る光の筋の中で埃が舞っている。小さな光が踊っているようなきらきらしさも、目の前で刻一刻と日没に引きずられて薄れていく。
土蔵の奥は真っ暗で、何があるのか見えない。目を凝らそうとした時、かすかに音がした。
あの男の子が中にいるのかもしれない。そう思って、鉄の扉を押した。
びくともしない。体重をかけて力をこめると、耳障りな音を重たげにたててわずかに開いた。音の不気味さに気持ちが怯みそうになるのを堪え、もう少しで体を滑り込ませることができそうだと両手に再び力をこめた時だった。
「……皐月ちゃん?」
草を踏みしめる足音と不思議そうな声に、目の前の赤茶色の扉に集中していた皐月は思わず声をあげた。
「き、きよくん……!」
「ごめん、びっくりさせて。座敷の裏窓から皐月ちゃんの姿が見えたから。もう暗いのに、こんなとこでどうしたの?」
白彦はゆっくり辺りを見回しながら土蔵に近づいてきた。
皐月はなんと言えばいいか分からず、「ちょっと」と曖昧に笑みを浮かべた。
さすがに狐面をつけた男の子を追いかけていた、とは言えない。
白彦は深く追及することもなく、皐月の前の鉄の扉を触った。
「ここ……、懐かしいね」
言われて記憶を探る。思い出せない。
一抹の不安とともに黙っていると「かくれんぼしたの、覚えてない?」と、優しい口調で問われて皐月はかすかに表情を曇らせた。
「ごめんね、小さい頃のことあまり覚えてなくて」
あはは、と誤摩化すように笑っても胸の奥がうすら寒い。
裏庭はますます暗くなっている。地窓から漏れてくる座敷の淡い光に揺れる草が、影ばかり濃くして、淋しげに揺れている。
「十年以上も前だから仕方ないよ。でも皐月ちゃん、この蔵に閉じ込められて、大騒ぎになったからすごく思い出深くて」
「私が?」
「そう。僕も皐月ちゃんがこのまま蔵から出られなかったらどうしようって一緒に大泣きして、もうパニック」
冬の湖のように澄んだ瞳をした白彦は、皐月の手をとると蔵の扉に続く階段に座るように促した。その自然なエスコートの仕方に、なんとなく気持ちがざわつきながら白彦の長い指が滑らかでひんやりしていることに気をとられた。さきほどまで水を使っていた皐月の乾いた指とは大違いだった。
座ると、白彦は長い手足をもてあますように投げ出して隣に座った。
「鍵はかかってなかったんだ。でも僕の両親も皐月ちゃんの両親もこの扉をどうしても開けられなくてさ。出かけていたおばあちゃんが帰って来るまで誰も手をだせなかったんだよね。その間に皐月ちゃんの泣き声は聞こえなくなるし、僕も泣き疲れてうとうとしちゃって」
「おばあちゃんが開けてくれたんだ?」
「うん。あの時のことはよく覚えてる。大人の男がかかっても開けられなかったのに、一番力もなさそうに見えるおばあちゃんが、するする開けたんだからね。びっくりして目が覚めた。親父たち、ぽかんとしてたなあ」
白彦は楽しそうに思い出し笑いをした。それは皐月が知る男性にはない柔らかな上品さがあって、思い出の中の白彦の面影からは少し遠い。
「それで私は?」
「うん、蔵の中で泣き疲れて寝ちゃってた。おばあちゃんが中に入って、揺り起こしたみたいだよ」
ーーいいか、ここさ1人で入っちゃなんね。連れていがれっからよ。
降ってくるように祖母の声が耳の奥に響いた。
皺に埋もれそうな細い目を思い出す。
埃をかぶった和箪笥や櫃、行李が並ぶ隙間に身を寄せるようにして眠っていた皐月を祖母が見下ろしていた。涙が乾き薄く汚れがこびりついた頬を、祖母は節くれだった指でそっと叩いた。
目を開けて認めたそのしわだらけの顔とぬくもりに、ようやく皐月は怯えていた何かから解放されたことを知って、安堵のためにまた泣き出したのだった。祖母の言葉は、幼かった皐月にとても響いた。それほどに、なぜかひどく怖かったのだ。
土蔵の存在を封印していたのは、この時のことがあったのかもしれない。
危ないから一人で蔵に入るな、というなら理屈は分かる。でも「連れていかれる」とはどういう意味なのだろう。
何に対して怖がったのだろう。
暗がりの中で、何かを引きずるような音を、聞いた。どこかで水が滴り落ちる音が聞こえた。
耳の奥に蘇った記憶の音に、ぞわっと鳥肌が立った。
次の瞬間、狐面の男の子のことを思い出した。
この土蔵に誘導されたのだろうか。
狐の嫁入り、狐面の男の子、祖母の言葉、土蔵……。
自分の鼓動が激しく警鐘を鳴らしているようだった。自分は何か大事なことを忘れているのではないか。そんな不安がぬぐいきれない。
「思い出した?」
自分の世界に沈んでいた皐月の耳元で、からかうような軽い笑いが聞こえた。ハッと顔をあげると、白彦がいたずらっ子のような光を瞳に湛えて至近距離から皐月を見つめていた。端正で硬質な顔が驚くほどそばにあって、皐月は思わず座っていた位置から後ろにいざった。
「危ない!」
あっと思う間もなく階段から転げ落ちそうになった皐月の腕を、敏捷に動いた白彦がとらえた。そのまま白彦の方に強く引っ張られ、なかばその腕の中に倒れこむ。見た目よりも力強い腕の感触に、思い出せそうな何もかもが吹き飛んで体が強張った。
「小さい頃は僕よりもすばしこかったのに……」言葉にしなくても言いたいことは伝わる。
「ちょっと!」ムッとして、お礼を言う気も失せて白彦から離れた。
「きよくんこそ、昔はもっと素直でかわいかった!」
皐月の嫌味もどこ吹く風で笑いを抑えながら、白彦は皐月を見つめた。
「10年以上も経てば僕だって変わる。でも皐月ちゃんは変わらない」
「どういう意味?」
どうせお転婆だとか世話を焼かせたとか、散々会う親戚に口にされてきた言葉に身構えた。
「今も素直でかわいい」
思いも寄らない言葉に、絶句した。皐月の反応に、白彦は今度こそ肩を揺らして大きく笑い始めた。白彦が成長したら、なんて想像する暇もなかったけれど、外見にときめいたひとときの乙女心を返してほしい。そう思いながら、皐月は乱暴に白彦から離れて立ち上がった。
「支えてくれてどうもありがとう。でもきよくんはだいぶ変わったみたいね」
つっけんどんな言葉に白彦は顔をあげて、切れ長の瞳を皐月に向けた。その瞳は少し潤んでいて、目尻に小さく涙が溜まっている。笑い過ぎたらしい。それがまた皐月を呆れさせもして、土間で再会した時の胸いっぱいの懐かしさに水を差された気分だった。
「戻ります」とそっけなく言って踵を返した。
「皐月ちゃん」背中を追いかけるように呼ばれた。
無視するのもさすがに社会人としては子どもっぽ過ぎる気がして、「何、」と険のある声で振り向いた。
土蔵の階段に座った白彦は、そよとも動かない雑草の沈黙に包まれて、真剣な表情で皐月を見ていた。
「僕にとって、ここでの皐月ちゃんとの思い出はすごく大事なものなんだ。だから皐月ちゃんにまた会えて嬉しいよ。とても」
噛み締めるような物言いに、本心からそう思っていることが伝わってくる。白彦のみずみずしい想いの底にあるものが親愛でも情愛でも、まっすぐな言葉の力に叶うものはない。
一瞬にして毒気を抜かれて、皐月もまたまっすぐ見つめ返した。
「……うん、ありがとう。あまり覚えてなくてごめんね。……戻らないの?」
「しばらく涼んでく。親父たちに絡まれるから」と白彦は苦笑いした。
小さく頷いて背を向けた時、背後からざあっと吹いてきた風に背中を押された。裏庭にはえたさまざまな草が、まるで存在を主張するように音を立てて、皐月の気を引いた。
もう一度土蔵を振り返ると、ほんの数分の間なのにはや夜の帳が降りて、階段に座っているはずの白彦の姿は、その陰に隠れようとしていた。すらりとした足ばかりが、おぼろげな座敷からの明かりの中に浮かぶ。まるで彼の上半身は、土蔵から溢れてくるような闇の中に飲み込まれていくかのようだった。
きよくん、そこにいちゃダメだよ。今度こそ、連れていかれてしまうよ。
そう皐月は言いかけて、びくりとした。無意識の底からせり上がってきたような言葉だった。
もう十分に大人の男性を相手に、何を言おうとしていたのだろう。
何に、連れていかれるというのだろう。
その先を考えることを阻むように、再び周囲の草が風に揺れて擦れ合う音をたてた。
早く去ね、とでもいうように。
なんとなく怖くなって、早足で裏庭から表玄関のある母屋の正面へとまわった。ぼんやりと明るい門前提灯のそばを通り過ぎる、通夜客のそぞろな気配を感じてようやく皐月はホッとした。
狐面の男の子も、何か見間違いだったのかもしれない。
狐の嫁入りを見た時のように、たった一度きりの、人間にはうかがい知れない時間の隙間をのぞいただけなのかもしれない。
< 5 / 36 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop