言い訳~blanc noir~
12年ぶりの再会 Ⅴ
「―――後は美樹ちゃんが知ってる通りじゃないかな。こっちに来て少し経った頃に出会った女と婚約した。その後は絵理子に刺殺されそうになったり、今日は美樹ちゃんからは爆破予告を受けたり。それで今に至るって感じだよ。12年前まで遡ってるからちょっと美化されてるところもあるかもしれないけど」

「……椎名さん、大丈夫なの? 自暴自棄過ぎない?」

「大丈夫なんじゃないかな。とりあえずまだ死んでないし、こうやって美樹ちゃんとも話してるし」

 コーヒーカップが空になっていた。懐かしい思い出話をしているせいか、やけにアールグレイが飲みたくなった。テーブルの端に置かれたメニューを手に取った和樹は「何か頼む?」と美樹に目を向けた。

「私、林檎ジュースにする」

「林檎ジュース?」

 昔からコーヒーか紅茶のどちらかを好んで飲むイメージがあっただけに林檎ジュースを頼む美樹が少し意外に思えた。

 そう言えば、さっきまでハーブティを口にしていたな、と些細なことを思いながら、和樹は内ポケットから煙草を取り出した。

 すると美樹が「あっ」と小さな声をあげる。

「ごめんなさい。煙草吸わないで」

「ごめんね。煙草苦手だったんだね」

 煙草を再び内ポケットにしまいながら美樹に視線を向ける。すると美樹にしては珍しく優しげな眼差しを浮かべていた。


「お腹に赤ちゃんがいるの」

「え? そうだったんだ。先に言ってくれたら良かったのに」

 ちょうど通りかかった店員にアールグレイと林檎ジュースを注文し、もう一度美樹に視線を戻した。

「だからか。美樹ちゃんにムートンブーツのイメージが全くなかったんだ」

 美樹の足元に視線を向けると、「よくそんな細かいこと気付いたわね。でも、早くパンプスが履きたいわ。ぺたんこ靴ってどうも苦手なのよね」

 美樹は肩を竦ませた。

「けど、美樹ちゃんに子供か。二人目、だよね?」

「うん。娘がね、まだ産まれないの、まだ産まれないのって毎日のように訊いてくるの。毎日大騒ぎしてるわ。楽しみなんだろうね」

 目元を緩ませた美樹の表情は柔らかく、母親の顔付きになっていた。

「椎名さん、生きてね。私、昔から性格があまりいいほうじゃないから、気の利いた言葉って言えないけど。
でも死に急がなくても人間の死亡率は100%よ。ほっといてもそのうち死ぬんだから。それに結婚するならその結婚生活に賭けてみてもいいんじゃない? 
結婚ってギャンブルみたいなものだし、意外と良かったりするかもよ?」

 林檎ジュースとアールグレイがテーブルに並んだ。

「まさか美樹ちゃんに諭されるとはね。でも大丈夫だよ。自分で死ぬこともできない臆病者だから。なんだかんだ腐りながらもこうやって生きてるしね」

 しばらく和樹の顔を見つめた美樹は「椎名さんのこと大嫌いだったけど、不幸になれって思ったことは一度もなかったわ」と、可愛げのない声色で言った。まるで不貞腐れたかのような言い方に子供のような愛らしさを感じた。

「なに笑ってるのよ?」

「いや。美樹ちゃんって可愛くなったね。いい年齢の重ね方してるなって思うよ」

「惚れた?」

「ああ。惚れた」

「お腹の子、椎名さんの子供よって言ったらどうする?」

「じゃあ一緒に産婦人科に行こっか。そして先生の話を一緒に聞かせてもらうよ」

「あら。椎名さん、ちゃんと学習してるじゃない」

 美樹の言葉に和樹が目を細め「まあね」と言いながらアールグレイを口にした。

 陽の光が窓から柔らかく差し込んだ。美樹の黒髪が光沢を放つ。

 すると、ふっと顔を上げた美樹がテーブルに身を乗り出す。

「椎名さん。くだらない事訊くね。私の事、好きだった?」

「さあ。どうだろう」

「どっちなのよ?」

 別れた男にそんな事を訊ねてどうなると言うのだろう。女からこの手の質問を受けるのは何度目だ。和樹は笑った。

「何を言っても言い訳になるだろ? 
あんな別れ方しか出来なかった俺はその後も腐った人生を送ってるし。
好きでもない女に簡単に“愛してる”とか言える男だよ。美樹ちゃんにとっては“椎名みたいなクズと別れて良かった”って思ってるほうがいいんじゃない?」

 和樹が美樹を見つめる。

 すると頬を膨らませた美樹から「クズ」と吐き捨てるように言われてしまった。

「言うに事欠いてクズかよ。面白いなそれ」

「だってクズ以外に適切な言葉が見つからないんだもん」

「クズだよ。それもかなりハイレベルなクズだよ」と和樹が居直って見せる。

 その後は幾つか、世間話をかわした。

 12年ぶりに再会したかつての恋人とこんなふうに笑って話す事が和樹にとって不思議に思えた。

 久しぶりに自然に笑っている事がどこか信じられなかった。

まだ「笑う」という感情が残っていた事に気付かされたとでも言えばいいのか。笑う。それは悪いものではなく、むしろ心が解れるようだった。

「美樹ちゃん、会いに来てくれてありがとう」

「何よ、急に」

「明日からまた亡霊になるんだろうけど今日は楽しかったよ。それと愛とか幸せとか、そういう言葉って虫唾が走るくらい嫌いだけど、でも、自分が好きだった女が今幸せでいるのは何よりだよ」


「好きだったって認めてくれるのね」

「あ、そこは訂正しておくね」

「何のための訂正なのよ! いちいち腹が立つわね。でもまあ、いいわ。椎名さんの言い訳も聞かせてもらったし。今回の爆破は見送ってあげる」

 目尻に小さな皺を寄せた和樹は「命拾いしました」とわざとらしく会釈する。

 ふと時間が気になり腕時計を一瞥した。気付けば2時間以上も話し込んでいたようだ。

「美樹ちゃん、そろそろ仕事に戻るね。今日は一人でこっちまで来てるの?」

「ううん。実はね、主人の出張について来たの。妊婦一人でこんなところまで来るわけがないでしょ。でも、もうすぐ会議が終わるはずだから、ここで待つわ」

「そっか。もう十分幸せだろうけど末永くお幸せにね」

 椅子から立ち上がると、美樹も慌てて腰をあげた。

「椎名さん、そこまで見送るわ」

「大丈夫だよ。座ってろよ」

 美樹は強引に立ち上がった。会計を済ませた和樹と店の外に出る。

「椎名さん」

 振り返るとなぜか美樹が唇をキュッと結び、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。

「なんでそんな顔してるんだよ。全然似合わないよ、そういうの」

 笑いながら腰をかがめ美樹の顔を覗き込む。

「在り来たりなことしか言えないけど、椎名さんも幸せになってね」

 和樹は何も言わず優しげな眼差しを浮かべ、美樹の頭をそっと撫でた。

「いい女になったね、美樹ちゃん」

「私は昔からいい女よ」

 その強気な言葉に和樹はくすりと肩を揺らす。

 目に痛いほどの西日が辺りを燦々と照らしていた。光に向かって歩き出した和樹の背中を、目を眇めながら美樹が見送る。


「椎名さん! 絶対に幸せになってね!」

 大声で叫ぶ。一瞬足を止めた和樹がこちらを振り返った。

 陽の光ではっきりと表情までは見えなかったが「うん、うん」と首を二度、縦に振るのが見えた、ような気がした。

 それが見間違いではないことを、美樹は願う。
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