茜色の約束

知ること


 次の日も、その次の日も、毎日、志保は必ずそこにいた。

 僕は電車から降りると、必ず周囲を見渡すのが日課となっていた。
 僕と志保は、太陽が沈む前の少しの時間、言葉を交わした。
 今日も彼女は僕を見つけると駆け寄ってきた。

「こんにちは」

 志保の手元には、ミルクティーが握られていた。
 僕も今日、ミルクティーを購入していたので、彼女にそのミルクティーを見せた。
「一緒だね」
 すると、志保は僕のミルクティーをまじまじと見た。
「違うわ」
 てっきり一緒だと返事をしてくれるのだと期待していた僕は、見当違いの志保の言葉に驚いた。
「何が違うの?」
 僕は訊ねた。
「メーカーが違う紅茶だもの。きっと味も全然違うわ」
 彼女は口を尖らせる。
「同じミルクティーじゃないか」
「違うの」
「味の違いがわかるの?」
 僕には、紅茶の味の違いがわからない。ファッションセンスも疎いが、味覚も疎いのだ。

「どちらも美味しいのは変わらないわ。けれど、甘味とか、深みは違う気がするの」
「そうなんだ・・」
「そうよ」
 志保は誇らしげな顔をした。

 ミルクティーの違いで、ここまで話が盛り上がったのは人生で初めてだ。
 そもそも、ミルクティーについて談義したのも、初めてだ。

「それより、私、疑問だったんだけど」
「なに?」
 僕はとりあえず短い返事をした。

 志保と知り合って数日間が経ったが、ひとつ気が付いたことがあった。
 それは、志保はいつも僕に、何かを訊ねてくることが多いのだ。
 志保は必ずと言っていいほど、頻繁に質問をする。
 言葉の最後で、首を傾げるのだ。「どうして?」「なぜ?」、この言葉をよく使う。

「どうして、実は私の前で写真を撮らないの?」
 志保は予想通り、首を傾げた。志保はいつも首を左に傾ける。今もそうだった。
「ねえ、どうして?」
 志保は僕を真っ直ぐに見た。志保の視線に、僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「だって、恥ずかしいよ」
 僕は志保の視線から逃れることができず、小さい声でそう言った。
「恥ずかしいの?」
「恥ずかしいよ」
 志保はまだ、僕を真っ直ぐに見ている。その視線は眩しい。
「でも、私、見たいの」
 志保は言葉を続ける。
「実の撮った写真と同様に、実が撮っている姿もまた見たいの」
「また?」
 僕は訊ねた。志保が僕を撮っている姿を見られた記憶がないからだ。
 志保は小さい声で「あ」と言って、口を手で抑えた。

「とにかく、ほら、撮ってよ」
 志保は僕の肩から掛けているカメラを見て、手に取った。
 
 僕はその手を止めた。
「僕からも質問していい?」
「なに?」
 志保は僕を見た。

「どうして、そんなに色んなことを知りたいの?」

 僕の言葉に志保はきょとんとした表情をする。それから、口角を上げた。

「だって、実のことをもっと知りたいんだもの」

 僕はその返答に驚き、「え?」と聞き返した。
 すると、志保は少し頬を火照らせ、「うそよ」と言った。
「なんだ。うそなんだ」
 心のどこかでがっかりしている僕もいるが、安心している僕もいた。
 志保が本気で、僕のことを知りたいと言ったならば、僕はどう返答すればよいのかわからなかったからだ。

「それも、うそ」
 志保はにやりと笑う。
「うその、うその、うその、うその・・」
「ちょっと待って。どっち?」
 僕は志保の言葉を遮って言った。
 志保はまた、にやりと笑った。
「さあ、どっちだと思う?」
 そんなの僕に訊かれても、わからないよ。
 僕はそっと心の中で呟いた。
 どうやら、志保は僕で遊んでいるらしい。

「まあ、それは置いといて・・」
 彼女は僕に背を向けたのかと思うと、すぐに振り返り、僕を見た。
 もう先程のようなにやりとした笑みは浮かべていない。でも、目を細めている。彼女の優しい笑みだ。

「知ることって、素敵なことだと思わない?」

 志保は首を左に傾ける。
「そうかなあ」
「そうよ」
 僕の返事に志保はすぐに応えた。小さい声だったけれど、強く呟いたその言葉は、僕の心の深いところにゆっくりと沈んだ。まるで、海に何か大切なものを落として、それが時間をかけて海の底に沈んでいくような感じだ。
志保は頭を上げ、空を見上げた。

「知ることによって、もう昨日の自分とは違う自分になれるの。人の成長が明らかにわかるのは、知ることだと私は思うわ」
 
 僕も志保と同じように、空を見上げた。今日の空には巻雲が浮かんでいる。
「知ることによって、見える世界が大きく変わるの。あなたの写真を知らなかったら、私はこんなにも空が美しいことに気がつかなかった」
 
 君はとっくに気が付いていたのではないのかい?空の美しさを。
 だから、あのとき、茜色の空を見上げて微笑んでいたのではないのかい?

 僕が志保に対する疑問が浮かび上がった。
 けれど、僕は、その疑問を彼女にぶつけなかった。
 それより先に、ある衝動が僕の手を動かしていたからだ。
 
 僕はシャッターを切っていた。僕らの頭上に広がる果てしない空の写真を撮っていた。

 それから、僕はそのレンズをゆっくりと隣に向けた。

 カシャッ。


 それが僕の手元から鳴った音なのか、それとも僕の心の中で鳴った音なのかは、フィルムを見なければ分からない。とにかく、ファインダー越しに見える志保は、目を細めて僕を見ていた。

「とうとう、撮っちゃったね」

 そう、言葉を添えて。




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