茜色の約束

空の涙

 
 その日は、電車の中からなんだか嫌な予感がしていた。
 雲が重く灰色で全体的にどんよりとしていて、電車の窓に小さな水玉が存在していたからだ。
 
 あいにく、今日の僕は傘を持ってきてはなかった。

 どうにか、家にたどり着くまで、これ以上雨が強くならないでくれ、そう願いながら、電車から一歩、ホームに足を着けた瞬間だった。

 ザアーーー

 僕の全身は一瞬にして濡れた。

 なんというタイミングなのだろう。こんなこと、なかなかない。
 僕は慌てて六畳ほどの小さな駅の中に入ると、一人の人影があった。

「こんにちは」

 志保はお腹を抱え、笑いながら僕にいつもの挨拶をした。
 さきほどの決定的瞬間を、きっと彼女は目撃したのだ。

「実、雨男なの?」
 志保はなかなか笑いを止めることができないようだ。恥ずかしくなった僕は、ぶっきらぼうに呟いた。
「そういうわけじゃないと思うけど」

 僕は一瞬にしてびしょびしょになってしまった上着を脱ぎ、ズボンの中からハンカチを取り出した。けれど、ズボンも濡れてしまったせいか、ハンカチまでも濡れている。
 顔や手、ほかにも濡れてしまったところを拭こうと考えていたのだが、この濡れたハンカチで拭くと、逆効果になりそうだった。

 そのくらい、雨の威力は凄まじかった。濡れた時間はたった数秒なのに、こんなにもびしょ濡れになることはあるだろうか。しかもそれが、僕が電車から下りた次の瞬間にそうなった。僕は本当に雨男なのかもしれない。きっと、雨を呼び寄せてしまったのだ。

 僕が、はあと溜息をつき、駅の出入り口から外を眺めていると、志保が僕の視界に顔を覗かせてきた。

「これ」
 未だ、少し笑いながら、志保は何かを僕に差し出してきた。
 志保の手元を見ると、そこにはハンカチがあった。薄いピンク色のハンカチ。
「拭かないと風邪ひいちゃうわよ」
 志保はそう言いながら、僕の手元にハンカチを乗せようとする。
 僕はそのハンカチを受け取ることを逡巡した。
 なんだか、心臓がどくどくと鳴っていたからだ。原因はよく分からない。

 彼女のハンカチを受け取るとき、あやうく手が触れてでもしたら、僕の鼓動が彼女に伝わってしまうのではないかと恐れていたのだ。

 志保は、いつものように首を左に傾ける。拭かないの?そういった言葉を浮かべていることが、志保の目を見てすぐに分かった。
 僕は志保の目を逸らし、再び駅の出入り口を見た。相変わらず、勢いよく雨は降り続いている。

 どうやって帰ろうか。とりあえず、雨が止むのを待たなきゃな、そう考えているときだった。


 隣にいた志保が、急に出入り口から外へ飛び出したのだ。

 雨が彼女を一瞬にして濡らしていく。

「何やってるの?」
 僕は思わず叫んでいた。志保の行動が全く読めなかったからだ。
 志保は顔を上げ、両手を伸ばした。
「私のやりたいことよ」
 そう言いながら、志保は柔らかい表情を浮かべた。

 僕は慌てて外に出た。

 一度濡れてはいたものの、やはりもう一度当たると、雨の強さが分かる。
 大きな丸い水の粒が僕の肌にたどり着き、そして、丸ではなくなった水が僕から滴り落ちる。

 僕が志保の腕を掴むと、志保は驚いた目で僕を見た。
 それから、彼女の腕を引いて、もう一度、駅の中に入った。
「何をやってるんだ!」
 僕は志保の腕を離し、そしてまた叫んでいた。僕は叱責したつもりだった。

 それなのに、志保はきょとんとして表情を浮かべ、首を左に傾げた。何を怒っているの?そう言った目をしている。そして、志保は急に笑った。
「これでお揃いよ?」
「お揃いってどういうこと?」
「この間、ミルクティーが違うことにこだわっていたじゃない」
 数日前のことを思い出す。そういえばそんなことがあったような。しかし、あのとき、ミルクティーの違いにこだわっていたのは志保の方ではないか。志保の脳内で変換されているのだろうか。
「これで、雨に濡れた者同士。お揃いってことよ」
 志保はどこか堂々とした態度でいる。

 僕がこの状況でわかったのは、志保は普通の人とは違う何かを持っているということ。
 それだけだ。
 しかし、その何かはうまく説明できない。


「なんか不満そうね」
 志保は口を尖らせながら言う。
「そんなことないよ」
 僕はそう応えた。
「言っておくけど、雨の中に飛び出したの、お揃いになりたいからだけじゃないのよ?」
「他に理由があるの?」
「もちろん!」
 志保が目を大きく開け、大きな声で言った瞬間、志保の髪や頬に浮かんでいた水の粒がいくつか宙を舞った。
 小さなシャボン玉が浮いているように見えた。

「雨って、気の毒だと思わない?」
 志保は再び、首を左に傾げた。今日はよく傾げる。
「どうしてそう思うの?」
 僕がそう応えると、志保は待ってましたとでも言うように、口を開いた。
「だって、みんな雨を嫌うじゃない。傘なんか差しちゃって」
「まあ、たしかに。濡れたくないしね」
「どうして濡れたくないの?」

 そう言われてみれば、たしかにそうだ。着替えや洗濯が面倒だから?でも、そんなことをいちいち考えていない気がする。雨のときは傘を差す。それは、本能的なものではないだろうか。

「私にはね、雨って空の涙じゃないかって思うの」

 志保は、外で振り続ける雨を、愛おしそうな目で見つめた。
「みんな濡れたくないから、傘を差すでしょう?傘を差すと、傘の表面で雨の雫が跳ね返るわ。その姿は、空の涙が避けられているように見えるの」
 志保はゆっくりと視線を動かし、僕を見た。
「誰だって、涙を避けられるのってとても悲しいと思うの。涙を拾ってくれる、誰かの手があるだけで心が温かくなるでしょう?空だって同じよ。誰かが、拾ってあげなきゃ。いつまでも、泣き止まないわ」

 志保はそう言って、さっき雨の中でしていたように顔を上げ、両手を広げた。
 ブラウスが雨で濡れてしまったせいか、志保の腕が透けて見えた。
 驚くほど、白い。頬や髪の毛からは、雫がポタポタと落ちてゆく。

 僕は全身が震えた。濡れて、寒いから?いや、そうではない。
 志保のあまりの色っぽさにただ僕は圧倒されたのだ。
 志保の唇を見る。濡れているせいか、艶やかに光っている。

 どくどくと、再び僕の心臓が鳴る。熱い血液が全身を巡るのがわかった。

 志保は、僕のそんな気持ちに気付くことなく、微笑んだ。

「もう泣かなくていいのよ。私が拾ってあげるから」

 志保はそう言いながら、再び外に飛び出した。

 顔を上に向けて、目を瞑り、両手を大きく広げ、くるくる回る。
 ひらひらとスカートが広がる。
 雨を全身で受け止め、それから空の涙を拾っている。そう感じた。
 志保のそんな姿にぼくは見惚れてしまっていた。

 志保を囲んだところに、一筋の光が差し込んでいるように見えた。


 ふと気付くと、さっきまで、ザアーを思い切り降っていた雨が、ぽつぽつといった雨になっている。
 それでも志保は笑みを浮かべて、受け止め続けていた。
 
 空が泣き止んだ。そう直感したとき、すっかり雨が止んでいた。

 志保を囲む空中がきらきらと輝いている。
 

 いつのまにか、僕の手元には、カメラがあった。そして、僕はそっとシャッターを押していた。


 空の涙と共に踊る彼女は、本当に美しかった。




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