伯爵令妹の恋は憂鬱

「歌?」

「ええ。賛美歌がいいかもしれません。祈りの歌ですから」


こんな人前で歌うのは気が引ける。マルティナはおろおろと辺りを見回したが、目に入るのは肩を落とした兄だ。


(お兄様に元気になってほしい)


自分を救い、守ってくれた兄に、唯一できるかもしれないことが歌なら、とマルティナはすうと息を吸い込む。だけど、ひるんだ彼女は無言のまま息を吐き出してしまう。
すると、トマスに背中をポンと叩かれた。

「俺も聞きたいです。マルティナ様の歌声」

おびえたとき、悲しい時、寂しい時、いつもマルティナの心を動かしてくれるその優しい衝撃。今日もまた、マルティナの背中を押した。大きく息を吸い、静まったその部屋に震える声が響く。

「……神の驚くべき恵みは、私の心の迷いを消した。霧のような悪魔の誘いを、吹き飛ばし清き光をはなつ……」

有名な賛美歌だ。最初は震えていたマルティナだったが、徐々に声に力が宿ってくる。ミフェルが目を見張ったように彼女を見つめる。

「……なんだ、きれーな声、出るんじゃん、マルティナ」

「当たり前だ。俺の自慢の妹だ」

少し肩を震わせながら、フリードはミフェルにそう言い返す。

「……おばあさまに苦手意識があったのは、昔、弱みを握られたと思っていたからかもな」

勝気で無鉄砲な少年フリードが、勘違いで恐怖に震え、ぬくもりを求めたことは、記憶から抹消したいくらい恥ずかしい出来事だった。
記憶の片隅に押しやるときに、リタへの感情も一緒に追いやった。夜の恐ろしさから逃れるために、ぬくもりを求めるくらいには、懐いていたというのに。

そしてフリードは、それから襲ってきたたくさんの苦難を乗り越え、未来を生きるために、過去の記憶は置き去りにして振り返らなかったのだ。

「不義理なことをして、……悪かったと思ってる」

リタの手紙には許しが請われていた。
だがフリードこそが生きているうちに和解できなかったことを今悔いていた。
そんなフリードの悔恨に、マルティナの歌声が重なる。天使のような歌声に、フリードは許しを得たような気持になっていた。

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