記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
31.後悔なく生きる方法
 かなり早いけど、僕も嬉野さんと同じ時間に部屋を出て大学へ向かうことにした。

 男としては送って行かなきゃだし、なんとなく一緒に行くよと言った方が彼女は喜んでくれると思ったのだ。

 案の定、嬉野さんはパッと笑顔を作って朝の支度を始めてくれた。その笑顔を見ていると、寝不足もいつの間にか吹っ飛んでいる。

 二人で部屋を出ると、本当に偶然先輩とそのタイミングが重なった。先輩は一瞬驚いた表情を見せ、気まずそうに目をそらす。今日もスーツを着ていた。

 嬉野さんは、どう思っているんだろう。やっぱり昨日のことを引きずっているんだろうか。そう思って僕が代わりに挨拶をしようとしたら、先に嬉野さんが先輩へと近寄った。

 それは確かなもので、迷いはない。

「嬉野茉莉華です。七瀬さん、もしよければこれから仲良くしてくれませんか?」と、彼女は七瀬奈雪という一人の女性へ、改めて自己紹介した。色々と心の整理がついたらしい。

 対する先輩は、少しだけ気まずい表情が和らいだ。

 そして小さく微笑み「こちらこそ。よろしく、茉莉華さん」と返した。

 それから先輩は僕を見てニヤリと微笑む。

「可愛い女性を部屋に連れ込むなんて、君も隅に置けないね。それに昨夜はお楽しみだったみたいじゃないか」
「いや、何もやってませんから!」
「ハハッ、面白いね君は。冗談だよ」

 こんな会話を、前にも一度した記憶がある。だけどそれはやっぱり曖昧で、いつの間にか頭の中から消えていた。

 嬉野さんは唇を尖らせていて、小さく不機嫌をアピールしている。いつの間にか近くに来ていて、袖を掴まれていた。

 目を合わせるとそらされて……なぜかヤキモチを焼いているんだとすぐに分かった。どうしてすぐにそれが分かったのかは、例のごとく理解できない。

 先輩は右手を上げて、先に一歩を踏み出した。僕と嬉野さんは挨拶をして、階段を降りて行く先輩を見送る。

 それから嬉野さんは、ぼそっと僕だけに聞こえる声で話しかけてきた。

「もしかして、七瀬さんのことが好きなの?」
「それはないから」
「でも、綺麗な人だよ?」
「憧れみたいなものかな。先輩としては好きだけど、そういう風には全然考えてないよ」

 そう言うと安心してくれたのか、ほっと胸を撫で下ろした。僕はなるべく早くに答えを決めた方がいいのかもしれない。

「じゃあ、私のことを少しは対象として考えてくれてる?」
「それは考えてるよ」
「そ、安心した」

 嬉野さんが微笑んでくれたのを見て、僕たちも目的の場所へと足を踏み出した。

※※※※

 佐々木教授が大学へ復帰して、最初は何事もなかったかのように講義が執り行われていた。ある人はスマホを触り、ある人は本を読み、僕は一人で真面目に授業へ取り組んでいる。

 講義は後半へと差し掛かり、あと十五分ほどというところで最後のスライドが終わった。

 通常時なら早めに切り上げて帰っていいということになるんだけど、今日の教授は手元のノートパソコンを見つめたまま終わりを宣言しようとはしない。どこか思いつめたような表情をしていて、講義室内も変に静まり返る。

 教授はマイクの電源をオフにして、肉声で僕たちに語り始めた。

「先週、私が大学を欠席した理由だが、もう学生のみんなは耳にしたと思う」

 心なしか、少し声が震えていた。なるべく後方の位置へ座ったから、みんなの反応が僕にはよく見える。スマホを触っていた人はカバンの中へとしまい、本を読んでいる人は静かにそれ閉じていた。
騒がしかった講義室に静寂が落ちる。

「娘は、まだ高校二年だった。妻と二人で別の県に住んでいて、私は毎日のように家族と連絡を取り合っていた。しかし最後の日は、研究が忙しくて電話をしてあげることができなかったんだ」

 最後の日というのは、修学旅行の前日だったんだろう。

「今でも、なんで電話をかけなかったんだと自分を責め続けている。せめて最後に、行ってらっしゃいという言葉だけでも、かけてあげたかったと。でも、もうそれは一生かかっても叶わない。あの日、娘とは一生の別れをしてしまったからだ……」

 僕ら学生は揃って息を呑んだ。僕らよりずっと長く生きている大人が、先ほどまで講義をしていた教授が涙を流したから。

 そして最後に教授は言った。おそらく、一番伝えたかったことなんだろう。
 自分の経験を持って、その言葉を説いてくれた。

「大切な人、想いを伝えたい人がいるなら、すぐに駆けつけてあげなさい。別れは、驚くほど突然やってきます。私はこの歳になって、そんなことも知らなかった。あなたたちがこれからの人生を後悔なく生きれるように、私は願っています……」

 そう言って、佐々木教授は教団を下りた。学生たちはいつもなら各々のタイミングで立ち上がるのに、今日は誰一人として立ち上がりはしなかった。

 ある人はすすり泣き、ある人は机に顔を伏せたまま微動だにしない。

 結局本来の授業終了時間まで全員が座り続け、次の講義で使う学生が入ってきた頃にポツポツと移動し始めた。

 僕も、その波に紛れながら講義室を後にする。

 なぜか、佐々木教授の言葉に共感している自分がいた。別れは突然やってくる。僕はいつだったか、それを経験した記憶がある。そのときの僕は全てに悲観して、打ちひしがれていた。でもそれは、思い出せない。

 代わりに思い浮かんだのは、僕に好意を向けてくれている嬉野さんの姿だった。大切な人。教授がそう告げたとき、僕は真っ先に嬉野さんの姿を思い浮かべていた。

 今までずっと、僕は嬉野さんに対して抱いている感情が中途半端なものなんじゃないかと危惧していた。だからこそ、こんなにも返答を渋っていたのだ。

 正直に言うと、今もその気持ちが本物なのか分からない。相変わらず優柔不断だと僕は思う。

 だけど嬉野さんは、こんな優柔不断の僕を好きになってくれた。

 自分のことを好きになれない僕を、好きになってくれたのだ。

 中途半端でもいい。僕は、僕を好きになってくれた嬉野さんのことが好きだ。多かれ少なかれ、これは嘘偽りのない僕の本音。

 足りないなら、これから少しずつ、もっと好きになっていけばいい。それは嬉野さんに返事を出してからでも遅くはないはずだ。

 そして嬉野さんが好きになってくれた僕という人間も、ゆっくり受け入れていけたらなと切に思う。彼女ほど魅力的な人が好きになった奴なんだから、素敵な部分があるはずだ。

 今後の方針がすべて固まった僕は、キャンパスにある噴水の前で嬉野さんの仕事が終わるのを待った。そして頃合いを見計らいつつ、すぐに電話をかける。

 ワンコールもしないうちに出てくれた。僕はそれだけで嬉しくなる。

『どうしたの公生くん?』

 くぐもった声が聞こえてきて、心臓が大きく跳ねた。僕はやっぱり、嬉野さんのことが好きなんだ。

「今から、話したいことがあるんだ。とっても大事な話だから、二人だけで会いたい」
『うん、わかったよ。公生くん、今どこにいる?』その声は、少し期待の声に満ちていた。

「今は大学。僕の方から迎えに行くから、今いる場所を教えてほしい」

 きっと、今から話す内容を嬉野さんは大体察していると思う。そしてたぶん、いつもより心が踊っていると思う。いや、これは僕の推測だけど。

 もし向かう途中に嬉野さんが事故に遭ったりしたら大変だ。それに待たせた分、こういう時はこちらから行動したい。

 嬉野さんから現在地を聞いた僕は、すぐにそこへと走った。駅から近い川沿いの橋の上に、嬉野さんはいるらしい。ちょうど仕事の帰りに、そこを歩いていたようだ。

 走って、走って、大きな橋の上に私服姿の嬉野さんを見つけた。白色のカットソーに水色のロングスカートは、僕の目にとても美しく映る。

 僕は彼女の前に立ち止まって、膝に手をついた。運動不足がたたって、息を切れ切れだ。そんな僕の肩に、嬉野さんは優しく手のひらを置いてくれて「大丈夫?」と訊いてくれた。

 僕は息を整えて、用意していた言葉を発する。ちゃんと、嬉野さんの目を見た。

「好きです」

 その目は見る見るうちに涙でうるんでいき、僕はもう一度その言葉を伝えた。

「嬉野さんのことが、好きです」

 二度目の想いを伝えた時、嬉野さんは勢いよく僕へと抱きついてきた。僕の頬のすぐ横に、彼女の頬がある。

「こういう時は、名前で呼んでよ……」
「ご、ごめん……」

 しかし、怒ってはいなかった。ちょっとしたおねだりみたいなもので、僕はそれに微笑んだ後彼女の名前を口にする。

「茉莉華」
「なに、公生くん……?」
「茉莉華のこと、好きだよ」

 もう一度その気持ちを伝えた後、茉莉華の肩を掴んだ。顔を近付けても抵抗を示さなかったから、僕は茉莉華の唇を優しく塞ぐ。人間というのは不思議なもので、愛しい相手がそばにいると、少し大胆になれるらしい。

 幸い周りには誰も歩いていなかったから、たぶん見られていないだろう。車を運転している人も、僕らのことは気にも留めないと思う。

 唇を離した後、茉莉華をまっすぐ見つめた。恥ずかしさで茉莉華の方から目線を逸らしてしまう。

「公生くん、キスしたの初めてじゃないでしょ……」
「いやいや、初めてだよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「それなら、よかった」

 もう一度茉莉華が抱きついてきたから、僕も抱きしめ返す。幸せだった。幸せで幸せで、夢なんじゃないかと一瞬だけ思う。

 だけど夢なんかじゃない。僕はたしかに茉莉華のぬくもりを感じていた。

 僕はまた少し、茉莉華のことが好きになる。
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