記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
32.幸せな日々
 恋人同士になった僕らの時間は瞬く間に過ぎていき、いつの間にか十月になっていた。茉莉華とは順調すぎるほど上手くやれていて、お互いの都合が付けばほぼ毎日といっていいほど顔を合わせて笑いあっている。

 夏休み期間中には一度だけ嬉野家へお邪魔させてもらい、お父さんとお母さんに挨拶した。気が早いとは思うけど、これは茉莉華の提案だから仕方ない。

 彼女曰く、僕らが交際していることを両親に知られてしまったらしい。

 しかしお父さんは最初信じていなかったらしく、「本の虫のお前に彼氏なんてできるわけないだろ。ガハハ!」と大声で笑われたようで、それに怒りを示した茉莉華が「彼氏いるもん!! 次の休みの日に連れてくるからっ!」と怒鳴り返してしまったようだ。

 そんな啖呵を切った手前、挨拶しにいかなければ茉莉華のプライドが大きく傷つきそうだったから、僕はなるべくちゃんとした服装で嬉野家の敷居をまたいだ。

 玄関でドヤ顔をした茉莉華に僕は紹介されて、その時のお父さんは大きく目を丸めていた。どうやら茉莉華の言葉はハッタリだと思っていたらしい。

 お母さんは終始笑顔で「あらあら、まあまあ」と言って、僕を歓迎してくれた。

 妹さんとは一瞬だけ顔を合わせたけど、会釈をしたらサッとどこかへ逃げてしまった。
 すごい人見知りのようで、初対面の人には総じてああいう態度を取ってしまうらしい。後から聞いた話によると今は高校二年生のようだ。

 お盆休みの時、僕は一度実家に帰ると茉莉華に報告した。すると二言目に「私も行く」と言って、断る理由もなかったから実家へと招待した。

 その時の驚きようは嬉野家の比ではなく、まず母親が茉莉華を見た途端に壁へもたれかかるように倒れこんで、いつもはうるさい父親の口は驚きで半開きのまま動かなかった。

 妹なんかはこの世の終わりを宣告されたかのような表情を浮かべた後「嘘……兄貴に彼女なんて、ありえない……」と呟いたまま二階の部屋へ消えていった。

 茉莉華はいつもなら、僕の前だとわりと無防備な姿を見せてくれるけど、両親の前では頭からつま先まで猫の皮を被っていた。

 それは茉莉華なりのよそ行きの振る舞い方なんだろう。

 別人かと思うぐらい清楚に振る舞っていて、お父さんなんかは子どもみたいに顔を赤くしていて、それを見たお母さんが頭をひっぱたいていた。それを茉莉華を含めたみんなで笑いあっていて、なんか、いいなと思った。

 ちょっと気恥ずかしかったけど、初めて出来た彼女を紹介して本当に良かったと思う。

 この頃には何ヶ月か前に頻繁に起きていたデジャブみたいな現象は消えていて、僕もいつの間にかそれがあったことすら忘れていた。

 だけどタンスの中の洋服を見た時は、さすがに思い出す。そのたびに懐かしさと胸の苦しさに襲われて、茉莉華に会いたいと切に思った。

 この気持ちがどこから来るものなのかを知りたいという思いが少しはあったけど、考えないようにした。茉莉華との時間はとても楽しいから、考えないようにするのはとても楽だった。

 やがて夏が終わり秋がやってくる。

 十月九日の火曜日は大学の創立記念日だ。二〇十七年の十月九日は月曜日だったから、後一つ曜日がずれていれば三連休だったのにと、学生たちの間で不満の声が上がっていた。

 しかし、僕は別に何とも思わなかった。

 その日は、茉莉華が僕の予定に合わせてくれたのだ。貴重な有給を九日に使ってくれて、二人でどこかへ遊びに行こうと約束した。

 前日に予定を決めて、午前中は喫茶店でお茶を。午後はショッピングモールの七階にある映画館で映画を見た後、本屋へ行き……その後の予定は決めなかった。決めなくても大丈夫だと思ったからだ。

 たぶん、本屋に入ってしまえばあっという間に時間は過ぎて行く。

 そういえば、茉莉華と付き合いたての頃は着る服に気を使っていたけど、ある時「普通でいいよ」と言われてからは、そこまで悩んだりすることはなくなった。

 だからいつも通りの普段着で駅前へ向かう。

 茉莉華はまだ来ていない。それは僕が待ち合わせの三十分も前に到着したからだ。

 それは別に、デートに気が急いでしまったからではない。ただ、前に一度こんな風に待ち合わせをした時に、僕より茉莉華が先に到着したことがあったのだ。その時に茉莉華は見知らぬ男の人にナンパされたらしく、僕が到着した頃には涙目になっていた。

 なんとか一人で振り払えたらしいけど、今後そういう心配をさせないように、なるべく早く来るようにしている。

 こういうのは、彼氏の務めみたいなものだろう。

 ほどなくして、約束の十分ほど前に茉莉華はやって来た。

 白色の服に青色の羽織ものを着て、下は白のロングスカート。普段着だけどセンスがいいから、茉莉華の綺麗さが引き立っていた。

 僕を見つけると、微笑みながら小さく手を振ってくれる。

「ごめん、待った?」
「ううん、それほど」
「嘘、私のために早く来てくれてるんでしょ?」
「バレてた?」
「公生くんのことは、よくわかってるから」

 言いながら笑みを浮かべてくれた。茉莉華を笑顔に出来たから、やっぱり早く待ち合わせ場所に来て正解だ。

 僕らはいつもの喫茶店へ行き、しばらくの間たわいのない談笑をした。最近あったこと、最近読んだ本、最近あった嬉しいこと。そういうのを直に会って報告しあうのが、お出かけの一つの楽しみとなっていた。

「そういえば、七瀬さんに彼氏が出来たの知ってる?」
「え、うそ。先輩に?」
「あ、その言い方は酷いなぁ公生くん。七瀬さんすっごく美人だよ?」

 美人なのは同意だけど、僕は素の顔を知ってしまっているから意外だった。実はどこかで、恋愛とかそういうのは興味のない人だと思っていた。

 学内では人気のある人だけど、僕の知っている限りでは恋人を作ったのは初のことだ。

「就職も決まったんだって」
「へぇ、どこに就職したの?」
「名瀬先生の時に小説を書かせてもらってた出版社。コネとかじゃなくて、しっかり七瀬奈雪さんとして受けにいったんだって。恩返しがしたいって言ってた」

 僕は、嬉しかった。先輩がもう一度、本に携わる仕事に就くことができて。

 もう名瀬雪菜の新作は読めないけど、今度からは七瀬奈雪がプロデュースした小説を読めるかもしれないのだ。それはそれで、これからが楽しみでもある。

 砂糖を入れたコーヒーに口を付けた。やっぱりここのお店のコーヒーは美味しい。

「公生くんは、どこに就職するの?」
「え、僕? まだ早いよ」
「早くないよ、二年後は就活でしょ? 今のうちにある程度決めとかないと、来年は焦っちゃうよ」

 一度就活を経験したことがある人からの助言は、やはり信憑性がある。僕は少し、将来のことが不安になった。

「私は商業系の高校で資格とか持ってたから優遇されたけど、公生くん何か資格持ってたっけ?」
「持ってない……」
「やばいね」
「うん、やばいかも」
「でも、私が支えてあげるから安心して。就活の時はサポートしてあげるから」
「それは心強いかも」

 とはいっても、心配をかけさせないためにいくつか候補は決めておいたほうがいいだろう。実は密かに本に携わる仕事に就きたいと思っていたから、それを頼りに就職先を探そうと思っている。

「七瀬さんと同じで、出版社はどう?」
「実は、就職するなら出版社かなって考えてた。でも、大変らしいからちょっと不安かな……」
「まだ時間はあるから、ちょっとずつ自分に自信を持とうよ。公生くん、出会った時よりずっと男らしいよっ」

 笑顔で褒めてくれて、僕は少し顔が熱くなった。こういう不意なところは、まだ慣れていない。

 それから僕らはショッピングモールの七階に移動して映画を見た。今話題の恋愛映画で、五月に茉莉華がオススメしてくれた本が原作だ。

『死んでしまった幼馴染が主人公の元に会いに来て、昔の約束を守りにくる』というストーリーで、僕は不覚にも上映中に涙を流してしまった。

 だけど隣の席に座っている茉莉華を見てみると、なぜかむすっとした表情をしていたから、僕の感性がおかしくなってしまったのかと不安になってしまう。

 映画が終わると、茉莉華はすぐに僕の腕を掴み早足で本屋へと連行した。僕といえば、泣いてしまったからその涙を拭くのに精一杯だった。

 茉莉華は『祝! 映画化!』というポップで華やかに宣伝されている単行本を手に取り、僕へ強引に手渡してきた。

「公生くん、絶対に原作読むべき!」
「え。映画もう見ちゃったし……」

 僕がそう言うと、茉莉華は可愛らしく小さな地団駄を踏んだ。こと小説の話になると豹変してしまうのが、実は小さな楽しみになっている。

「違うのっ! 原作の方が面白いのっ!」
「そうなの?」
「そうなの! もう色々と、話の展開変えすぎっ! 作った人は原作の良さを全くわかってないよ!」

 僕は苦笑しつつも「じゃあ、読んでみるよ」と言った。最初はやっぱり、小説のことに関して控えめな茉莉華だったけど、僕が絶対に引いたりしないと分かってくれたのか、今みたいに素で話してくれるようになった。僕はやっぱりそれが嬉しい。

 そのあとも二人で小説の話をして、映画の原作本を買った後にショッピングモールを出た。案の定もう辺りは暗くなっていて、想定外だったのは今から夕食を食べていたら終バスに乗れなくなるということだった。

 それはさすがにまずいから、僕らはいそいそと停まっていたバスへと乗り込む。二人でつり革につかまって、しばらくバスに揺られた。

 やがて茉莉華の最寄りのバス停へと停車して、乗客が次々と降りていく。その波を見ても、茉莉華は降りようとはしなかった。

「茉莉華、バス発車しちゃうよ?」

 そう言ったのと同時に、ドアが閉まって発信してしまった。茉莉華の表情を伺うと、少し、頬を赤く染めている。

 それからやはり照れた面持ちで「今日、泊まってっていい……?」と僕に訊いた。僕は一瞬だけ迷って、「いいよ」と答える。

 茉莉華の言わんとしていることを、僕はしっかり理解出来ていた。

 夕飯の食材を買うためにスーパーへ寄って、それからコンビニに行ってからアパートへと戻ってきた。

 狭いキッチンに二人並んで夕食を作る。休みの日は茉莉華が遊びにきて、お昼を一緒に作ることが多かったから手馴れているはずだった。だけど僕らはどこかぎこちなく、露骨なミスが多い。

 それでも夕飯は無事に完成して、二人で食卓を囲んだ。緊張で味はよくわからなかったけど、茉莉華の作った料理はいつも美味しい。

 実はあれから一度も、僕は茉莉華を部屋に泊めてはいなかった。茉莉華も部屋に泊まろうとは言わなかったし、次にどちらかが提案をした時がその時なんだろうなという予感はあった。

 先にお風呂へ入って一日の疲れを洗い流し、待ってくれていた茉莉華と入れ替わる。僕は部屋の中で待っていた。

 三十分ほど待っていると、茉莉華は居間へと戻ってくる。顔が赤くなっていたけど、きっとお風呂だけが理由じゃないんだろう。

 茉莉華は、倒れこむように僕へと抱きついてきてきた。

 僕はずっと、こうなる時を待っていたのかもしれない。
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