続・マドンナブルー
            エピローグ

 安藤勝則は、太平洋に浮かぶベル・イル島の丘の上で、キャンバスと向かい合っていた。フランス北西部に位置するこの島に移り住んで、早三年となる。フランス語で「美しい島」という意味を持つこの島は、その名の通り、荒々しい海岸線と、青く澄んだ空との対比がすばらしい、まさしく美しい島だ。

 四年前、妻の咲羅とハネムーンでこの島を訪れた二人は、信号機すらない、手付かずの自然が残る、のんびりとしたこの島を一目で気に入り移住を決意した。彼は幸運にも、この地で中学校の美術教師の職を得ることができた。子供たちに美術を教える傍ら、創作活動に励んでいる。

 彼は年に数回、パリで個展を開いている。その評判は日本へも飛び、去年初めて日本での個展を開催するに至った。もちろん夫婦を結びつけ、彼が名声を博するきっかけともなった妻を描いた作品も展示された。東京と故郷の仙台で催され、友人たちも駆けつけて、大盛況で幕を閉じた。

 最近の彼の悩みの種は、自分の老化現象についてである。創作の際、老眼鏡が手放せなくなった。頭髪も、すっかりごま塩頭となってしまった。五十代目前なわけで、なんら不自然ではない。しかし、若々しい外見でありたいという願望は年々強まっていた。というのは、十八歳年下の妻と一緒にいると、親子と間違えられることもしばしばだ。そのたびに、若く美しい妻を不憫に思うのだった。

 そんなとき、妻は決まってこう言う。

「私、きらきらしてる先生の髪も好き」

 彼女はいまだに彼を「先生」と呼ぶ。ときどき改まったように「勝則さん」と呼ぶのだが、「先生」が一番しっくりくるのだそうだ。彼もそれが嫌ではない。それから、目を潤ませ幸せをかみしめるようにして、

「先生が大好き。たくさん長生きして、たくさん抱きしめてね」

 そんな言葉をささやかれたしまいには、たちまち彼は反応してしまう。妻を寝室に連れて行きたくてどうしようもなくなる。幸い、体力の衰えは少ないようだった。

 時刻は午前十一時を回り、観光客の数もしだいに増え始めた。

 侵食によって作られた、ごつごつとした岩が立ち並ぶ、複雑な地形が眼下に広がる。そこに荒々しい波が激しくぶつかり、白いしぶきを上げている。蒼茫たる海原。澄み切った空。それらの対比がすばらしく、見るものを圧倒させる。画家の巨匠のモネをも魅了したこの島は、フランス本土と陸続きのキプロン半島から、フェリーでわずか四十分ほどで渡海できる。そのため、この美しい島には年中観光客が絶えない。観光客の中には、絶景を眺める傍ら安藤のキャンバスを覗き込んでいくものがいる。質問や感想を投げかけるものもいる。そこから会話が弾み、ちょっとした世間話に発展したりもする。

 昼時となり、人の数はまばらになった。彼も空腹を覚え、自宅へ戻ろうと後片付けを始めた。彼の家は、十五分ほど坂を下ったあたりに建つ古い石造りの一戸建てである。今頃身重の妻が、自分の帰りを待って、食事の準備をしているに違いない。そのそばでは、やんちゃざかりの二歳になる息子が、つまみ食いの機会をうかがっているのだろう。その光景を思い浮かべ、彼はおもわず笑みがこぼれる。もう三ヶ月もすれば、新たな命が生まれる。彼は、しみじみと幸せをかみしめた。

 帰り支度を終えた彼は、荷物を持って立ち上がった。海岸に背を向けて歩き始める。そのとき、激しい波音が、背後で響いた。それとともに、見物人の歓声が、ワッと上がった。

 彼も振り返っていた。勢いよく岩にぶつかった波は、彼のいる丘の上にまでしぶきを飛ばしてきたからだ。無数の水と粒に日光が反射し、きらきらと輝きながら、雪のように彼の目の前を舞い落ちていく。その光の粒の向こうでは、雄大な自然を目の当たりにして、手をたたいて喜ぶ観光客の姿がある。

 なぜ人は、この非情な海に魅せられてしまうのかと、彼はふと考えた。幾度となく牙をむき、人々に襲いかかっても、人はまたここに戻ってきてしまう。人類の祖先が太古の海から誕生したという説は、母体内で胎児を満たす羊水と、海水との成分がほぼ等しいというデータが示すように、有力説と考えてよいだろう。そのため海をふるさとと思う気持ちが、遺伝子に組み込まれているのかもしれない。非情ながらも、母のような温かみを感じてしまうのかもしれない。

 彼は、果てしなく広がるマドンナブルーの海を見つめた。亡くなった妻子を想った。そして、海で命を落としたすべての人々へ思いをはせた。

 彼らの冥福を、心から祈るように・・・・・・。


            完



   読んでくださり、ありがとうございました!

 
< 27 / 27 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop