此華天女
 ――あたしを殺そうとしたひと。

 主不在の空我家に君臨する、現在の支配者の名を呟き、桜桃は湾の表情をうかがう。

「あんまし身内のことは悪く言えねぇけどな」

 はぁと溜め息をつきながら、湾は桜桃のあたまを軽く小突く。

「……悪いな」
「湾さんは悪くないよ?」

 古都律華の人間すべてが帝都清華を憎んでいるわけではない。こうして桜桃の隣で謝っている湾だって、古都律華の名を引き継ぐための婿養子として川津家の長女で実子の姉である米子(よねこ)と夫婦になったのだから。

「義妹あいつがそこまでするなんて考えられなくて」

 古都律華の中でも皇一族との縁が深い川津の名を強制的に背負わされた青年は、古くからのしきたりや伝統などくそくらえだと常に口にしている。生家から追い出される形で婿養子にさせられたのだから伝統も何も、知らないのだ。
 余所者を厭う古都律華の本質を見抜けるのは同族だけで、その血を残すために仕方なく自分は選ばれたのだと自嘲していた湾。それでも古都律華の由緒正しい氏族である川津がこの先帝都清華に潰されないよう義妹の実子を空我家の正室に嫁がせるのに一役買ったり、愛妾の娘でしかない桜桃を実の娘のように可愛がっているところを見ると、彼なりに自分の役割を果たそうとしているといえなくもない。

「樹太朗がもうすこし気が利く人間ならよかったんだけどな。たぶん坊がいるから任せて行っちまったんだろうけど……お嬢、こうなったら大陸を渡るぞ」

 愚痴っぽく呟いて、湾は桜桃に向き直る。大陸を渡る、だから自分はいまここにいるのだと改めて頷き、湾の言葉のつづきを待つ。

「このまま帝都にいるのは危険だ。空我のことなら坊に任せておけばいい。お嬢はしばらく身を隠せ。とっておきの場所がある」
「とっておきの場所?」

 小声で桜桃が口をひらくと、湾はそうだ、と頷きながら応え、ぽんと桜桃のあたまを撫でる。

「坊が迎えに来るまで、嬢ちゃんはそこで名を変え、潜んでいればいい。手続きは済ませてある」

 日の出とともに出航する船の甲板の上で、湾は呟く。

「――いまは、俺を信じてくれ」

 潮風が、ふたりの身体をそっと撫でて、つんとする残り香を漂わせていく。夜闇で暗く、黒い海面がゆらゆらと揺れるのを柵に寄りかかりながらじっと見降ろしていた桜桃は、こくり、と首を縦に振る。
 渡されたのは行き先を告げる切符。見知らぬ土地の名を脳裡で転がしながら、息を殺したまま、夜明けを待つ。


『帝都 司馬浦(しばうら)発 北海大陸 富若内(とみわかない)行』

 やがて、地平線の彼方から黄金色の太陽がひょっこりと顔をのぞかせ、船は動き出す―――……
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