此華天女
第二章 天女、潜入
 帝都のある東の大陸を中心とし、その地を囲うように位置している北、西、南の小大陸を支配下に置くこの島国のなかでも、北に位置する菱形の北海大陸は名治神皇の世になってから急速に開拓が進められるようになった場所である。冬は雪と氷に閉ざされ厳しい環境になるといわれているが、春から夏にかけての晴れの多い清涼な気候やじめじめした雨季が存在しないなどの利点から、酪農をはじめとした産業が伸びてきているという。

 小環(おだまき)はふん、と鼻を鳴らして手入れのされていない牧草地をじっと見つめる。足を止めた馬が、空腹のために草を食べ始めたのだ。これではしばらく動きそうにない。仕方なく、周囲を見渡す。
 空は曇天。雪混じりの黄緑の絨毯の向こうに聳え立つのは万年雪で白く化粧をしている美蒼岳(びそうだけ)だ。美蒼岳と夫婦のように並ぶのが冠理岳(かんむりだけ)で、ほかにも多雪山系(たせつさんけい)に属する峻険な山々が春の訪れなど知る由もないと連なっている。あの一帯はたしか、市町村を配置する際に潤蘂(うるしべ)という地名でまとめられたはずだ。

 天より遣わされし神々の末裔である皇(すめらぎ)一族とは異なる、北の大地に古くからあるというさまざまな土地神の伝説の多くが潤蕊には残されている。多くは根拠のない伝説や伝承でしかないだろうが、滅んだとされる古いにしえ民族の教えを今も先住民たちは大切にして生活している。地名が変わったからといって、慣習までをも変える必要はないだろう。そんなことをすれば住民たちの怒りを買うのは必至だ。
 だというのに、その慣習を悪用するものがいるという。


「まったく、面倒くさい」


 見ず知らずの土地へ供のひとりもつけずに放りだした父、名治(かたはる)に対して心の中で毒づきながら、小環は暢気に草を食む馬を見つめる。
 この馬だって、富若内の港で無茶を言って買ったものだ。人力車を頼もうにも、帝都とは異なり広すぎるがゆえに行き先まで連れてってくれなかったのだ。だからといって便利な鉄道や馬車も整備されていない。商人から馬を強引に買い取ったときに見た、野垂れ死んでも知らないぞといわんばかりの態度にも怒りを通り越して呆れてしまったものだ。
 だがこの大陸奥地は本格的な開拓がはじまったばかりの未開の地。移動手段が発達していないのも仕方のないことだ。それに怒りの矛先を向ける相手もここにはいない。


「……均衡を崩しやがって」
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