此華天女
 鋭く瞳を煌めかせ、雁は己に封じられた真のちからを発揮させる。まるで兎を罠へ追い詰める猟犬のように、慈雨を狙って氷雪の檻を編み出し、これ以上手だしできないよう種光とともに閉じ込めてしまった。

「この程度のもの、すぐ壊してやる……っ!」

 冷たい檻に囚われた慈雨と種光は抜けだそうと試みるが、『雪』に対抗できる強大なちからを持たないふたりは分厚く透明な氷の壁に阻まれたまま四苦八苦している。
 慈雨たちが氷雪の檻から抜け出す前に、桜桃の暗示を解かなくてはならない。雁は声を荒げて桜桃と対峙している小環に向かって叫ぶ。

「――篁さん、早く!」
「……Nennamora teeta rehe tane rehe erampeuteka」

 小環の唱える声が、上空で蝶のようにひらひらと飛びながら氷の矢を放っていた桜桃の動きを制止させる。

「その名を呼んでいいのは僕だけだ! お前などに彼女を呼ぶ資格はない!」

 宙でぴたりと止まった桜桃に、柚葉がなおも声をかけるが、額に星の花を咲かせた天女の耳には届いていない。

「〈昔の名と今の名を〉――ノチュウノカたる始祖神の末裔オダマキが命ずる。天空の至高神の加護持つカシケキクの者よ、縛られしふたつ名をその身より解き放て!」

 界夢の地から去る際に、逆さ斎が教えてくれた、桜桃のなかに潜む天女のちからを呼び出す、ふたつ名を心に浮かべ、小環は強く念じる。

 ――咲良のちからを持つ桜桃、俺に応えろ!

 ぴたりと止まっていた桜桃の白い西洋服の裾が、風に揺らめく。いまは亡き『風』の部族、レラ・ノイミが小環に味方したかのように、あたたかく、心地よい風が、カイムの地をサァアアアアアッと通り過ぎていく。

 そして、冴え冴えとした冬の蒼穹は黄金色に煌めく太陽によって淡く白く塗りつぶされ、やわらかい水色の空へと変わっていく。
 額に星の花を咲かせた天女の瞳の色も、優しい榛色……いつもの桜桃の虹彩に戻っていた。そして、桜桃に導かれるように小環の身体が浮かび上がる。
 この場にいる誰もがその光景に目を瞠っていた。


「小環っ!」
「桜桃。もとに戻ったんだな!」

 ふたりは空中で抱擁を交わし、微笑みあう。触れあったとたん、桜桃の身体は軽やかに動き出す。まるで目に見えない羽衣に包まれているかのように。

「ごめんなさい、あたし……」

 小環を傷つけようとした。信じていた異母兄、柚葉にかけられた暗示によって。

「いいんだ。お前は悪くない。それより」
「――ゆすら、その男から離れろ!」

 暗示を破られた柚葉が激昂している。桜桃は軍服姿の柚葉を見下ろし、かなしそうに首を振る。

「なぜだ! 春を呼ぶ天女になどならなくても、ゆすらには僕さえいれば良かったんだ! なのに、その男が此の世に栄華を招く天女を愛する伴侶だ? 羽衣だ? 信じない、信じないぞ。この世界に春を呼ぶのは僕とだ。そうだろう? ゆすら?」

 いまにも泣きだしそうな柚葉を見ても、桜桃は彼を受け入れることができない。自分と一緒にいたら、彼は壊れてしまう。彼はその程度の人間じゃない。そう思っていたけれど。
 柚葉は桜桃が鳥籠から放たれる前から、壊れていたのだ。異母妹を法的に自分のものにするためだけに、ついには国家に反逆する伊妻の残党と手を組んでしまった……
 信じたくなかった。けれど、彼は桜桃のふたつ名である咲良の名で、彼女を縛り、天女の羽衣である小環を殺させようとした。慈雨たちと手を組み、小環ではなく自分が春を呼ぶ天女の羽衣になろうとした。
 幼い日に桜桃が慕っていた柚葉は、もういない。

「……ゆずにい」

 桜桃は憂える視線を柚葉に向け、申し訳なさそうに囁く。ごめんなさい。

「あたしはもう、あなたがいる安全な鳥籠に戻れないんです」

 そう、口にして桜桃は小環の手をぎゅっと握りしめる。

「あたしがともに春を呼びたいと希う男性ヒトは、あなたではなく、小環だから」

 宙に漂っていた桜桃と小環はゆるやかな曲線を描きながら地面へ降り立つ。ふたりが立った場所から、勢いよく芽吹きの緑が残雪に塗れた暗い土を覆い尽くし、一斉に色とりどりな花芽をつけ、そこから風船のように蕾を膨らましたかと思えば破裂する。
 弾けた花々は青と白の世界に新たな彩りを加え、隠れていた小鳥たちが歓喜の歌を囀りだす。まるで雨上がりの七色の虹のように美しい光景が天と地を結びつけ、睦み合う。
 聴こえる。新たな四季の訪れを識ったカイムの民が、春を呼んだ天女と彼女をちからなき天神の娘から覚醒させた時の花という名の羽衣を生み出した始祖神の末裔を讃え、言祝ぐあの神謡(うた)が。
 光と色の洪水は止まらない。雪はみるみるうちに解けはじめ、校内に植わっていた梅や桜の花々が狂い咲きをはじめる。春の到来を待ちわびたカイムの神々はばたばたと動き出す。長すぎる冬の眠りから目覚めたばかりの生物たちも驚いた表情で飛び出していく。
 時の花が開き、春を呼ぶ天女が、此の世界に栄華を咲かせに舞い降りたのだ。
 圧倒的なちからを前に、雁は感謝の神謡を口ずさんだままひれ伏していた。氷雪の檻が解けたのにも気づかず、慈雨と種光も神々しいまでのちからの奔流に耐えきれず、腰を抜かして眺めている。
 けれど柚葉だけはそんなことがあっていいわけがないと喚きながらひとり、春の訪れを拒みつづけている。

「こんな手品などに騙されるもんか。お前さえいなければ桜桃はっ!」

 そして、懐から黒光りする拳銃を取り出し、小環に向けて発砲する。
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