君のいた時を愛して~ I Love You ~
三十七
 コータの職場に薫子が訪ねてきたのは、あれから一月ほどしてからだった。
 ナイトライダーのテーマで呼び足されたコータがバックヤードに走りこむと、『中村君、お母様が見えているよ』とマネージャーが声を掛けた。
  『お母様』という言葉に、コータは戦慄した。
 サチの母の刑期は年単位のものだとサチから聞いていたが、自分の母と名乗る女性にはほかに思い当たらなかったので、コータは休憩室の扉の前で躊躇しながらゆっくりと扉を開けた。

 休憩室の安っぽい椅子に腰かけていたのは、恐れていたサチの母ではなく、どう見ても場違いなほど高級そうなスーツに身を包んだ薫子だった。
「薫子さん」
 驚いてコータが声を掛けると、薫子は優しい笑みを浮かべてコータのことを見つめた。
「お仕事中にごめんなさいね。お部屋の方に伺おうかと思ったのだけれども、具合の悪い奥様に余計な負担を掛けない方が良いかと思いましたの」
 薫子は言うと、コータに向かいの椅子に座るように促した。
「この間は、失礼しました」
 コータは頭を下げてから向かいの椅子に腰を下ろした。
「この間のお話、やはり、私では動かせる額が少なくて、実家の兄に少し支援を頼んだのですが、やはり渡瀬に嫁いだ身ですから、そうそう実家の支援も受けられませんでしたの」
 薫子は言うと、ハンドバッグの中から封筒を取り出し、すっとコータの前に差し出した。
「えっ・・・・・・」
 コータは戸惑い、じっと薫子のことを見つめた。
「母親として、私が幸多さんにしてあげられるのは、これだけなんです」
 薫子の言葉に、コータの中で怒りが沸き上がった。
「あの人は、あの人は何と言ってるんですか?」
 航の事を決して『父』と呼ぼうとしないコータに、薫子は瞳を伏せた。
「主人にとっては、私も、幸多さんも、家のための道具にすぎないんです。自分の思い通りにならなければ、不要。子供を産めなければ役立たず。ただ、それだけです」
 円満な夫婦に見えていた薫子と航の間にも深い溝と影があることをコータは初めて理解した。
「これは、私が幸多さんを信じてお貸しするものです。決して、憐憫から施すのではありません。私には、他には何もしてあげられませんが、いざという時のために、このお金をお貸しします。信用貸しですから、借用書もいりません。余裕のある時に、私の口座に少しずつでも振り込んでくださればそれで構いません」
 薫子は言うと、封筒をコータに握らせた。
「奥様のお名前、確か、サチさんとおっしゃったかしら・・・・・・」
「はい。でも、どうして僕がここで働いているってご存知だったんですか?」
 コータの問いに、薫子は寂しそうに微笑んだ。
「あの人は、ちゃんと幸多さんのこと、今も調べてるんですよ。どこで働いているのか、どこに住んでいるのか」
「親子だって、言いふらさせるのを警戒しているんですね」
 コータは言うと、一瞬封筒を押し戻そうとした。
「あの人にとって、渡瀬の家よりも大切なものは何もないのでしょう」
 薫子の寂しげな様子に、コータは封筒を突き返すのを止めた。
「このお金、ありがたく、お借りします」
 コータは言うと、深々と頭を下げた。
「では、私は失礼します」
 薫子は言うと、静かに席を立った。
 コータは封筒を胸のポケットにしまうと、薫子を従業員通用口まで見送った。
「お元気で」
 上品に言う薫子に、コータは深々と頭を下げた。
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