君のいた時を愛して~ I Love You ~
 帰宅した航の機嫌はすこぶる悪く、ブランデーを注いだグラスを手渡しても、いつものように薫子に礼を言うことはなかった。
 既に、付き合いで飲んできたにもかかわらず、ブランデーを要求する航に、薫子は嫌な予感しかしなかったが、渡瀬の家に嫁いでしまった以上、夫である航に従うのは薫子の務めだった。
「なぜ、あんな小汚い男を屋敷に入れた!」
 想像通り、ブランデーをがぶりと飲み干した航は、声を荒げて薫子を詰問した。
「幸多さんは、あなたの息子ではありませんか」
 この事実は、既にDNAによる親子判定で覆しがたい事実となっているので、薫子は胸を張って答えた。
「既に縁を切った」
 航からすれば『縁を切った』で済む話だが、巻き込まれた薫子とコータにしてみれば、それで済む問題ではなかった。

 航の両親が存命の間は、是非にと望まれて嫁いできたにもかかわらず、陰では後継ぎの産めない石女(うまずめ)呼ばわりされ、肩身の狭い暮らしをしていたが、後継ぎ問題が宙ぶらりんのまま航の両親が他界したと思えば、親戚縁者から後継ぎとして養子縁組の話が雨(あめ)霰(あられ)のように沸いて起こり、再び肩身の狭い思いをしたものだった。それなのに、なぜか航はどの話も気に入らなかったのか、いい返事をしなかったため、我こそはと後継ぎの座を狙う家々は、それぞれ養子候補として名を連ねた息子たちを航の会社に入社させ、虎視眈々と跡取りの座を狙うという状況が何年にもわたって続いている。そして突然、航から隠し子ではないが、航が大学時代、まだ薫子と結婚する前に交際していた女性が実は妊娠していて、既に成人した息子がいるので、後継者として迎え入れたいと話されたとき、薫子はこれで後継者問題で肩身の狭い思いをするのは終わるのだと思った。あとは、なさぬ仲の息子と良好な関係を保てば、航の夫人としての立場はゆるぎないものになると。
 初めて顔を合わせたコータは、若いころの航を思い起こさせる懐かしい顔立ちをしていた。
 強引なやり方の航には反抗的だったが、コータは薫子から見れば、素直で優しい青年に見えたし、改めて訪ねてきて話す限り、心根の優しい、好感の持てる青年だった。それなのに、よほど一連の出来事に腹を立てたのか、目の前でコータを足蹴にする航の姿は鬼神のようで、薫子は今まで抱いたことのない恐怖と、反発心を抱いていた。

「あなたが、あんな幸多さんの意思を捻じ曲げるようなことを強引になさるから、幸多さんだって反発したに決まっています」
 いつもなら言わない一言が薫子の口をついて出た。
「お前にはわからない。どれだけ、私が頭を痛めているか。雨後のタケノコのように社内に蔓延る後継者狙いのドングリの背比べにいちいちおべっかを使うバカな役員たちに、私の善意をあだで返すバカ息子に。どれも、話にならん。挙句の果てに、犯罪者の娘と結婚するなど、渡瀬の名を名乗らせるわけにはいかない」
 苦々し気にいう航に、薫子は再び口を開いた。
「幸多さんは、とても良い青年です。あの時のことをちゃんと悪いと思ってお詫びの言葉を伝えて欲しいとおっしゃっていました」
「金が欲しければ、ああいった甘い汁を吸おうとする生き物は、いくらでもへりくだって見せるものだ。それが証拠に、足蹴にされても黙って甘んじていたではないか」
「それは、あなたの怒りを理解して、あなたに話を聞いていただきたいと思ってのことではありませんか」
 薫子は少し感情的になって言った。
「うるさい!」
 航が声を荒立てるのが早かったか、壁にブランデーグラスが砕けるのが早かったか、さすがの薫子も口を閉ざした。
「これは、渡瀬の家の問題だ。嫁いできたお前には関係ない。第一、お前が後継ぎを生んでいれば、こんなことにはならなかったんだ」
 航は言うと、呆然とする薫子を残し、リビングを後にした。
 残された薫子は、ぐっと涙を堪えてその場に膝をついた。
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