君のいた時を愛して~ I Love You ~
三十九
 コータがリサイクルショップで入手したMP3プレーヤーとブルートゥースのスピーカーのおかげで、サチは毎日、あの曲を聴いて過ごした。
 三月の声を聞いても良い知らせはなく、サチの衰弱が進むばかりだった。
 妻が病気であるからという理由で長期にわたりシフトに手心を加えてもらっていたコータも、決算月の三月のため、開店前の朝八時から閉店後の夜十一時まで職場に残らなくてはならない事もあり、その間は山根と富田のおばさんにサチの夕食の世話もして貰うようにお願いする他なかった。
 休みも固定で貰うのが難しい状況ではあったが、どうしても訪問診察の日は在宅する必要があるため、その日だけはお休みを貰うようにして後の一日のお休みは他のメンバーの取らない日に休みを取るようにしていた。
 本当なら、その日は休みを貰う予定にしていたコータだったが、シーズン終わりのインフルエンザに罹ったスタッフの代わりに仕方なく出勤することになった。
 何度もサチに謝りながら、コータはアパートを出た。

 いつもは寂し気な表情を浮かべながらも、『いってらっしゃい』とコータを送り出すサチが、その日に限って子供のように嫌だと駄々をこね、泣きじゃくるサチを山根・富田のおばさん達にサチを任せ、コータは後ろ髪をひかれる思いで出勤した。
 回ってくる仕事を次から次へと片付け、お昼時間のレジの助っ人に回ったり、総菜や弁当の補充に走り回ったり、忙しさはアルバイト時代を思い起こさせるようなハードなもので、本来のペーパーワークは後回しの後回し、今日は何時に帰れるのだろうかと、泣いていたサチの事をコータは思いながらバックヤードの時計を見上げた。
 時計は午後二時を指していた。
 コータは大きく深呼吸するとポケットからPHSを取り出した。職務時間中の個人携帯端末の使用は制限されていたが、コータの場合は病院からの緊急連絡が入ることがあるので、すぐ取り出せるポケットに入れて携行する許可を取っていた。
 当然、ほんの息をつくだけのバックヤードでの休憩時ならば使用に制限はない。朝の取り乱した様子が心配で、コータはサチに電話をかけた。
 コールは三回、すぐにサチは電話に出た。
『コータ!』
 最近ではめったに聞かないサチの大きな声に、コータは驚いたような、安心したような、複雑な気持ちになった。ずっと元気がなく、かすれた声で簡単な意思表示しかしなかったサチが、今朝は声を上げて泣き、そして、一人で起き上がるのも大変なはずなのに、出勤しようとするコータに追い縋って一人でベッドから扉の近くまで追いかけてきた。
「サチ、そんなに大きな声を出して大丈夫なのか? もしかして、薬が効いて、少し元気になったのか?」
 コータの問いに、サチは答えなかった。
『コータ、コータ、コータ。お願い、そばにいて・・・・・・』
「ごめん、サチ。本当にごめん。今日は仕事が忙しくて、明日はお休み貰えるから、本当にごめん」
 コータは必死に謝ったが、サチは電話の向こうで同じ言葉を繰り返した。
 その脇で、富田と山根のおばさん二人が必死に『そんなに言ったら、コータ君、お仕事に身が入らなくなるでしょ』と必死になだめる声も聞こえた。
「サチ、仕事が終わったら、すぐに帰るから」
 コータが言ったところでバックヤードの扉が開き、アルバイトの一人がバックヤードに駆け込んできた。
「すいません、また、例のお客さんがカウンターでごねてるんです」
「わかった。すぐに行く」
 一瞬PHSを耳から離し、コータは答えると、再びPHSを耳に当てた。
「ごめん、本当にごめん。サチ、行かないといけないから、電話切るよ」
 コータは言うと、サチの返事を待たずに電話を切った。
 サチの事が心配ではあったが、早く帰るためには仕事を終わらせるしかない。コータはもう一度深呼吸すると、ポケットにPHSをしまい、バックヤードを後にした。
 目標はエントランスに近いサービスカウンターだ。アルバイトが言っていた『例のお客』というのは、最近、頻繁に野菜の鮮度が悪い、果物の鮮度が悪い等々、常に商品の品質に関するクレームをつけに来るお客で、実際に持ち込まれる野菜や果物などの商品は鮮度の衰えが著しく、突きつけられるレシートの日時が正しければ、各商品担当者にそれぞれの品質管理に関してマネージャーから話をしてもらっているが、一部の商品についているバーコードが店のものではないなどの事実が判明しており、毎日のように繰り返されるクレームにパートの女性スタッフを初め、サービスカウンターに詰めるスタッフからは要注意客としてマークされており、姿を見たらすぐにマネージャーか社員、もしくは、契約社員に対応を代わるようにという方針が通達されたばかりだった。

(・・・・・・・・飽きもせず、今日も来たのか・・・・・・・・)

 コータは心の中で毒づきそうになりながら、サービスカウンターに急いだ。


「大変お待たせいたしました」
 コータが頭を下げると、年配の女性がロメインレタスをコータに突き付けた。
「こんな野菜を客に売りつけるなんて、なんて店なの?」
 ロメインレタスを売れ取ったコータは、それが中から茶色く腐ってきているのに気付いた。
「お客様、こちらを購入された際のレシートをお持ちでしょうか?」
 コータの問いに、『ほら』と言わんばかりに女性はレシートを突き付けた。
 レシートを上から見ていくと、『レタス』、『野菜その他』と『野菜値引き品』は見つかったが、ロメインレタスはリストになかった。そして、よく見るとレシートの日付は三月九日、一昨日だった。

(・・・・・・・・一昨日、ロメインレタスが入荷したのは、今月は昨日が初めてのはずなのに、一昨日、ロメインレタスを販売したはずはない・・・・・・・・)

「お客様、大変申し訳ないのですが、こちらのレシートにお持ちいただきましたロメインレタスはございませんが・・・・・・」
 コータが言うと、女性客はレシートをコータの手からもぎ取り、『レタス』と書かれた行を指さした。
「ここにあるじゃない、レタス!」
「申し訳ございません。このレタスは、一般的な丸い形状のレタスでございまして、このロメインレタスではございません」
「レタスに何の違いがあるのよ。これもレタス、レシートにもレタスがあるじゃない!」
「ですから、こちらは、形状の異なるレタスになりますので、このロメインレタスではございません。それに、レシートにはレタスの価格が二百八十円となっておりますが、こちらのロメインレタスは、一株二百三十円で昨日より販売をさせて戴いております。申し訳ございませんが、一昨日の時点では、私共の店舗ではロメインレタスの在庫はございませんでした。どちらか、他の店舗で購入されたものとお間違いではございませんか?」
 コータの言葉に女性客が声を荒げた。
「なんですって!!」
 コータはマネージャーから言われていた、やりすぎて客を怒らせることがないようにという指示を逸脱してしまったと、背中に冷たいものが流れた。
「お客様、他のお客様にご迷惑がかかりますので、もう少しお声を控えて戴けませんでしょうか」
 コータが宥めようとすると、女性客は更に声を大きくし、『腐った野菜を売っておいて、自分の店では売ってない、他の店と間違えてないかって、責任を他の店に擦り付けるの?』とまくしたてた。
 言い過ぎたと思った時には既に遅く、女性客は暴走して声を荒げて叫び、カウンターをバンバンと叩き始めた。
「責任者を出しなさいよ、責任者!」
 生憎、この時間責任者はコータ自身だ。マネージャーが勤務を開始する午後二時半までは、コータが責任者になる。
「お客様、自分がこちらの売り場の時間帯責任者でございます」
「なら、あんたの上司を出しなさいよ」
 女性客の言葉に、コータは一瞬カウンターの後ろにある時計に視線を走らせた。
 時刻は午後二時二十五分。あと五分しのげば、時間帯責任者はコータからマネージャーに変わるから、お客の言うコータの上司で、責任者にお客を引き渡すことは可能になる。しかし、ここで激怒したお客をマネージャーに丸投げすれば、コータの能力を疑われることになりかねない。
「申し訳ございません。上司は、まだシフトに入っておりませんので、私がお話を伺わせていただきます」
 コータは食い下がったが、お客は声を上げる一方だった。
 必死に女性客をなだめるコータは肩をポンと叩かれて驚いた。
「中村君・・・・・・」
「マネージャー・・・・・・」
 バックヤードで騒ぎを聞いたのか、時間ピッタリにマネージャーがサービスカウンターに姿を現したのは、偶然と思えなかった。
「お客様、私が詳しくお話を承りましょう」
 マネージャーは言うと、女性客を連れてバックヤードの方へと案内していった。

☆☆☆

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