君のいた時を愛して~ I Love You ~
 コータの声を聞いて少し安心したものの、サチは言い知れぬ不安と恐怖で朝から落ち着かなかった。それこそ、病院で白血病だと血液癌であることを告知された時だって、こんな言い知れない恐怖を感じたことはなかった。
「どうしたんだい、さっちゃん」
「男ってのは仕事があると、そっちを優先するもんなんだよ」
 いつもは寝たきりのサチが朝からずっと起き上がり、何かに怯えている様子に、山根、富田のおばさんたちは交互にサチに話しかけ、サチの手をさすったり、背中をさすったりした。
「そうだ、ほら、あの曲を聞いたら気持ちも落ち着くわよ。さっちゃん、最近毎日聞いてるじゃない」
 山根のおばさんの言葉に、サチは思い出したようにあの曲をかけた。いつもなら、寂しさも、コータと離れ離れになる恐怖も、あの曲が和らげてくれるのに、今日はピアノの旋律を聞いているとまるで映画のエンドロールが流れているような、洒落た映画の最後に『Fin』とエンドマークが出るような、すべてが終わってしまうような恐怖しか感じなかった。
 次の瞬間、めまいに襲われたように視界がぐらりと揺れたと思うと、下から突き上げるような衝撃がアパート全体を大きく揺すっているのだと分かった。
「じ、地震!」
「地震だよ!」
 おばさんたちが声を上げ、サチは枕もとの薬入れの袋にスピーカーとMP3プレーヤーを入れた。ベッドの下には、コータとサチの貴重品が隠してあるので、サチは貴重品袋を取り出すと薬袋を中に入れて斜めにぶら下げた。
 揺れはまだ続いており、激しさを増す中おばさんたちが這うようにして扉の方に向かうのに続き、サチも扉の方に這い進もうとしてから大切な結婚写真のフォトフレームを忘れていたことに気付き、サチは今にも落ちてきそうなフォトフレームを掴むと、バッグに入れた。
「何してるんだい、さっちゃん」
「このボロアパート、崩れるかもしれないよ」
 二人の言葉を聞きながら、サチは重いバッグを引きずるようにして進んだ。
「富ちゃん、貴重品をとってくるから、さっちゃんと先に行って」
 山根のおばさんの言葉に、富田のおばさんが頷き、サチも階段の方へと進んだ。
 階段を降りようとすると、揺れのせいで落ちそうになり、サチは落ちないようにしがみつきながら階段を一段ずつ下りた。
「た、助けてくれ!」
 まだ階段を半分しか下りていないところで、一階に住む中村のおじいちゃんの声が聞こえた。
「おじいちゃん!」
「あれ、爺さんの声だね」
 富田のおばさんも言うと、サチの前を下りていった。
 やっと揺れがおさまってきたので、富田のおばさんの階段を下りるスピードが上がった。
「爺さんを見てくるよ」
 富田のおばさんは言うと、先に中村のおじいさんの部屋へと入っていった。
『じいさん、生きてるかい?』
 富田のおばさんの声が深刻そうで、サチも急いでおじいさんの部屋へと向かった。
 不思議なことに、部屋を出るまで感じていたバッグの重みも、体の怠さも感じなかった。




 おじいさんの部屋の中は揺れのせいでぐちゃぐちゃなだけでなく、家具が倒れておじいさんの上にのしかかっていた。
 富田のおばさんを手伝い、サチはおじいさんをタンスの下から引っ張り出した。まさに、火事場の馬鹿力というのがピッタリだった。
「おばさん、おじいちゃんはあたしが連れて逃げるから、おばさんは貴重品を取りに行って」
「さっちゃん一人で大丈夫かい?」
「はい。大丈夫です。・・・・・・おじいちゃん、貴重品の持ち出し袋は?」
 サチの問いに、おじいちゃんは震える指で部屋の隅の布袋を指さした。それを見たサチは、袋を掴むと、肩から自分のバッグと反対の斜めにかけ、おじいちゃんを支えながら進んだ。
 玄関で靴を履き、自力で立つことも困難なおじいちゃんに靴を履かせ、肩を貸して扉から出た。
「さっちゃん!」
 荷物を持った山根のおばさんが階段を駆け下り、富田のおばさんも部屋から走り出てきた。建物の外に出たところで左右からおばさんたちがサチの体とおじいさんの体を支えるのを助けてくれた。
 表から見ると、倒れなかったのが不思議なくらいアパートの外壁は痛んでいた。
 通りには、アパートの住人だけでなく、近所の家の住人もみな逃げ出してきていた。しかし、落ち着く暇もなく、余震が始まり人々は恐怖の声を上げた。
 左右にかけた重い荷物と、地面から直で伝わる振動に体が持たず、サチはその場でガックリと膝をついた。膝をつくと地面に力が吸い取られていくように体から力が抜けていく。
「コータ」
 サチは薄れていく意識の中でコータを呼んだ。
 二人がかりで中村のおじいちゃんを道路の真ん中に座らせていた山根、富田のおばさんたちが慌ててサチの方に向き直った。
「さっちゃん!」
「しっかりして!」
 おばさんたちの声が響いたがサチの耳には聞こえていなかった。

☆☆☆

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