君のいた時を愛して~ I Love You ~
 家に帰ると、やはり薫子の機嫌は最低最悪に悪かった。
 形式上、玄関まで迎えに出てくるのは、見送りについてきている社員の手前、自分が出来た妻であることをアピールするための演技であり『失礼致します』と社員が立ち去った後の玄関は関ケ原の合戦場かと言うほど殺伐とした空間が広がることになる。
「今日もお一人でお帰りとは、幸多さんはまだみつからないんですの?」
 喜んでいるのか、本当に心配しているのか計りかねる薫子の言葉に、航は『まだ行方も分からん』と事実を告げると自分の書斎に荷物を置きに行った。
「わたくし、もう、休ませていただきますわ」
 薫子の言葉に、航は『わかった』とだけ返事をし、そのまま書斎へと歩を進めた。
 事実、薫子だって引き留めてもらいたいわけではない。一緒に一杯どうだなどと誘われた日には、また新しく若い女でも囲ったのかと、猜疑心に襲われるだけの事だ。それに、薫子自身、無理やり航に連れてこられ、半ば監禁されていた幸多の事が全く心配でないわけでもなかったが、そのことを航に知られるのは負けを認めるようで嫌だった。
 薫子にしてみれば、会ったこともない、航の過去の女が産み育てた、あまりありがたくない置き土産ではあるが、それなりに薫子に対して礼儀正しく接してくれた幸多自身に恨みがあるわけでもない。どちらかと言えば、幸多も薫子も、航の身勝手の被害者なのだという、同族意識もわかないでもない。まして、航が過去に自分の両親からされた、幸多の母親と引き離されるという、今となっては一番痛い出来事を幸多に対して行おうとしていることに、薫子は嫌悪感を感じていた。
 もし、航が幸多の母親と結婚していれば、当然、薫子が航と結婚することはなかったし、渡瀬の家の嫁になることもなかった。それは、渡瀬の家の嫁として、煩い舅と姑の世話をし、二人が他界してから好き勝手に贅をつくした生活ができたのは、確かに渡瀬の嫁になれたからだったが、その代わり、子供を産み育てるという、普通の女性の幸せを奪われたことは言うまでもない。だから、航と結婚しなければ、渡瀬の財産を好きにすることはできなかったとは言え、薫子には別の男性と子をもち、幸せな家庭を築くことが出来たのだから、失ったものの大きさはお金で同行できるものではない。
 そこまで考えてから、薫子ははたと考えた。自分はこのまま幸多に帰ってきてほしくないのか、それとも、幸多に帰ってきてほしいのか。
 幸多が戻ってくれば、航は良い父親を演じるために毎日帰宅するようになるだろうし、そうすれば、航のいない薫子の平和な日々は打ち砕かれ、自分の子でもない幸多と仲睦まじい母子を演じなくてはならなくなる。しかも、もし、幸多が航の毛嫌いしている女性を妻に迎えたとしたら、その生まれも育ちも卑しい嫁と、幸多の手前、仲良くしなくてはならなくなる。どう考えても、薫子には何のメリットもない。しかし、あの憂いを浮かべた幸多の瞳を思い出すと、ずっと苦労を続けたのだから、航の息子として何不自由ない生活を少しくらい送ったとしても、バチは当たらないという気にもなる。
「私もどこまでお人よしなんだか」
 薫子は階段を上りながら呟いた。
 その時には、もし幸多が妻を連れて戻ってきたら、航に対抗する意味でも、二人の肩をもってやろうという気持ちになっていた。

☆☆☆

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