休みの日〜その夢と、さよならの向こう側には〜
35.彼女のために
 結果的に梓が合評会で提出した作品は、あまりいい評価を貰えなかったらしい。けれど今度はほどほどに落ち込んだ後、次こそはもっといい作品を書くと、前向きな目標を口にした。あの辛く厳しい日々が、彼女の内面を大きく変えたのだろう。梓の瞳は、真っ直ぐ前を向いていた。

 あの日から、もう一つ変わったことがある。それは、梓が僕の住んでいるアパートに、一緒に住むようになったこと。いわゆる同棲というやつで、夏休みが終わった後に、僕から提案をした。

 夏休み中、どこかへ遊びに行く時以外は、ほとんどの時間をどちらかの部屋で過ごしていた。それならば、お互いに同じ部屋に住んだほうが効率がいい。梓は共同アトリエの家賃も払わなきゃいけないため、一緒に住めば少しは出費が減る。そんな言い訳を、僕はつらつらと述べた。

 前に僕が、一緒の部屋に泊まるのはまだやめておこうと言ったから、梓は本当にそれでいいのかと悩んでいた。自分でも、矛盾しているとわかっている。けれど、彼女としっかり向き合うと決めたのだから、仕方がない。ずっと梓のそばにいたいという自分の気持ちは、偽ることはできなかった。

 そうして、引っ越しの諸々の作業が終わった初めての夜。僕と梓は以前よりも、深く心が近付いた。お互い初めてで、照れ臭くて、朝起きた頃には幸福感に包まれていたけれど、それが理由で大学をサボるようなことはしなかった。梓は起き上がると、僕に一度だけキスをして、朝ごはんを作り、身支度を済ませてから一緒に部屋を出た。梓と一緒に暮らすことになっただけで、世界は大きく変わり始めた。



 今度の合評会は、翌年の一月末にある。十月の今から取りかかるのはさすがに早いと思ったが、梓はやる気に満ち溢れていたため、僕は特に何も言わなかった。きっと、前回までの反省を今度こそ生かしているのだろう。僕は心の中で、梓に頑張れとエールを送った。

 十一月には学園祭があるため、絵の制作と同時進行でギターの練習をしなければならない。毎日夜は疲れ果てた表情をしていて、休日はアトリエに向かうことも多いけれど、一つも泣き言を言うことはなかった。梓は精一杯、頑張っている。

 そんな彼女の姿を見ていると、僕も自然と力が湧いてきた。マフラーは空いた時間を使って数日で編むことができたが、コートを作るのには少々時間がかかる。梓にバレないように進めなきゃいけないし、仮に夜にミシンの音を響かせていたらご近所迷惑になる。ミシンを使えるのは大学が早く終わった日と、梓がアトリエにいる休日だけで、中々作業は進まなかった。

 そもそも、コートは今までに一度しか作ったことがなかったし、あまり経験値が足りていない。幸いなことにこちらの部屋へ引っ越してきたときに、梓が冬に着るコートも持ってきていたため、サイズはそちらを参考にさせてもらった。自分の彼女が着ている服をまじまじと観察するのはよくないと思ったが、こればかりは仕方がない。

 丁寧に、慎重に、一針一針心を込めて、裁断した布を縫い合わせていく。毎日着るものだから、出来の悪いものを作るわけにはいかない。梓が絵に全ての時間を注いだように、今度は僕が頑張らなければいけない。

 孤独な戦いは続いていき、いつのまにか美大の学園祭の前日となっていた。明日は梓がステージの上に立ち、ギターを弾きながら歌う日。今から明日のステージを想像すると、期待で胸が膨らんでしまう。

 たまにしかしないことだが、今日は梓の代わりに僕が夕食を作った。明日のために、ゆっくりと休んで欲しいから。お互い風呂に入って、今も僕は彼女の長い髪をドライヤーで乾かしてあげている。お風呂上がりの梓の匂いは慣れてきたけれど、こうも近付きすぎると、いつもより自分の胸の鼓動が早く感じられた。手櫛で髪をすいていると、彼女は眠たそうに大きくあくびをする。

「まだ九時だけど、もう眠い?」
「うん。今日は最後の練習で、いつも以上に張り切っちゃったの」
「緊張とかしてない?」
「絵の締め切りに追われてた時の方が、緊張してたから。もちろんちょっとは緊張してるけど、それ以上に明日が楽しみなの」
「上手く弾けるようになったから?」
「ううん。大好きな悠くんが、見に来てくれるから」

 彼女の言葉が嬉しくて、僕は胸が熱くなる。同時に照れ臭くもなって、黙っていると梓にくすりと笑われた。

「悠くん、照れ屋だよね」
「褒められるのとか、あんまり慣れてないんだよ。そういうこと言われると、どうすればいいか困っちゃう」
「素直に受け止めればいいんだよ。私の悠くんに対する気持ちは、本物だから」

 そう言われても、僕に向けてくれている愛情を自覚するたびに、動揺で言葉が出なくなってしまう。もう少し、自分に自信を持たなきゃいけないのだろう。

「明日、梓のライブが終わった後、結構時間あるよね? 学園祭どこ回る?」
「私、オムライス食べたい。友達が模擬店出してるの」
「じゃあ、そこ行こっか」
「あとね、麻婆豆腐」
「食べてばっかりだね」
「だって去年の学園祭で食べたもの、全部美味しかったもん。麻婆豆腐は中華料理屋でバイトしてる人が作るんだよ? 絶対美味しいって」
「なんか本格的だね。さすが美大って感じがする」
「それ、どういう意味?」
「いろんなことに一生懸命ってイメージがあるから、遊びも本格的にやるのかなって」

 僕の通っている大学は学生数が多いが、学園祭はそれほど盛り上がっていない。大学が山奥にあるから、お客さんがあまり来ないのだ。学生も、遊びよりも勉学を優先させる人が多いというのも、一因としてある。だから他校の、ましてや美大が開催する学園祭は、楽しみで楽しみでしょうがない。もしかすると、今日の夜は眠れなくなるかもしれない。

 梓はふと、自分の左手を見つめる。左手の指先は、おそらく皮がむけて硬くなっているのだろう。

「明日、上手く弾けるかな」
「弾けるよ、きっと」
「弾けなくて落ち込んでたら、私のこと慰めてあげてね」
「うん。一晩中、付き合ってあげるよ」

 そう言って、僕はドライヤーのスイッチを切る。彼女の髪を指先ですくい、無事に乾いたことを確認した。とてもサラサラな髪は、いつまでも触っていたくなるような甘い匂いを放っている。

 僕は唐突に、後ろから梓のことを抱きしめた。

「わ、大胆」
「そう?」
「悠くん、自分からそういうことあんまりしないから」

 そういえばそうだなと、僕は自分で納得する。これも、自分に自信がないからなのかもしれない。

「梓は、こういうことするの慣れちゃったよね」
「そうかな?」
「付き合う前は、手を繋ぐだけで赤くなってたのに」
「今はドキドキっていうより、悠くんに触れてると安心するから」

 そんなことを言われて、逆に僕の方が照れくさくなる。それをごまかすように、梓のことをより一層強く抱きしめた。

「あっ、照れちゃった?」
「そ、そんなことない」
「わかるよ。悠くんのこと」

 からかうように梓は微笑み、恥ずかしさが増してしまう。どうにかして彼女に仕返しできないかと考え、僕はいいことを思いついたとほくそ笑む。正直自分も恥ずかしいが、それを押し殺して、梓の耳元で僕は呟いた。

「お互いに大学を卒業したら、結婚しようよ」
「えっ?!」

 予想通りの反応が返って来て、僕は嬉しくなる。正直、密かに考えていたことだから、嘘をついたことにはならない。

「だって、卒業したら梓は二十四歳でしょ? そういうの、考え始めてもおかしくない時期だと思う」
「そ、そんな先のこと、まだ考えられない……」
「僕がそうしたいなって、考えてるだけだから。梓と、卒業した後も一緒にいたい。その意思だけ、今は伝えさせて」
「う、うん……」

 コクリと、梓は頷いてくれる。それから僕だけに聞こえる微かな声で、「嬉しいよ」と囁いてくれた。
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