触って、抱いて、もっと愛して。臆病な令嬢は貴公子の一途な熱情に蕩かされました(原題「その身体に触れたら、負け」)
 今日に限ってうかつだった。こんなひとけのない場所で男性と二人きりでいれば、それだけであらぬ噂が立つのが社交界だというのに。しかも彼の間をすり抜けて広間に戻るには道幅が狭く、奥へ逃げようにもその先には四阿《あずまや》しかない。それでは自ら誘っているようにも受け取られかねない。よりによって、最も二人きりで会いたくない相手であるのに。

 どうにかしなければと思うのに、身体が思うように動かない。

「つれない方ですね、あなたは。あなたを慰めに来たのに」

 じっとりと嫌な汗が背中を伝う。オリヴィアは怯えに悟られぬよう、さりげなく首をめぐらせる。

「慰め?」
「俺との婚姻、考え直してはいただけませんか? 婚約者殿はあなたが離れたのをいいことに、お楽しみ中でしたよ?」

 カイルはうっすらと笑いながら大股でついてくる。フレッドの様子を思い出して胸がつきりと痛んだけれど、それよりも今はこの男をなんとかしなければ。彼女は足を速めた。

「このままでは、オリヴィア嬢が不幸になるのは目に見えています。今もあなたは放って置かれているじゃないですか。俺ならそんなことはしません。あなたに代わって、俺が御父上のお耳に入れて差し上げましょう。あの男は婚約者がいながら他の女性をもてあそぶ男ですよとね」
「何が幸せかは私が自分で決めることです。決めつけないでください」

 オリヴィアはカイルを振り向きざま、鋭くにらんだ。

「それに、あの方は女性をもてあそぶ方ではありません。フレッド様を侮辱するのは、私が赦しません」

 震える声で、それでもきっぱり告げてまた前を向く。さらに足を速めつつ、オリヴィアは懸命に逃げ道を探った。
 さきほどの彼の態度は、黒のインクを垂らしたようにオリヴィアの胸に暗く染みを広げていく。

 だけどフレッドは、自分との約束を守ってくれている。それが賭けのためでも、触れる前には必ず了解を得てくれる。そのことだけでも、目の前の男より格段に信用できる。
 この男にフレッドのことを好き勝手に言われたくない。
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