Piano~ピアノ~
Piano:叶side④
 そんなある日、彼が必死に何かと格闘しているのが目に入った。瞳には涙を浮かべているように見える。

 テーブルを拭くのに彼の横を何度か往復したが、一向にノートは白紙のままだった。

 ――そういえば私もバイトに明け暮れて、レポートを大量に出された記憶がある――

 カウンターに戻り、自分の財布から小銭を出してココアを購入した。そして自ら作る。彼はいつもコーヒーをブラックで飲んでいたので、甘さ控えめのココアを作った。

 少しドキドキしながら、彼のテーブルにココアをそっと置いてみた。

 彼は不思議そうな顔をする。

「あの……頼んでませんが」
 
 そりゃそうだ、私の勝手なお節介なんだから。

「難しい顔で考えてばかりいても進まないよ。甘い物でも飲んで、リラックスしないとね」

 ニコニコしながら言う私に対して、ちょっとムッとしたような表情を浮かべた。チャラチャラした外見とは裏腹に、強気な性格なのだろうか?

「申し訳ないですが、甘い物はちょっと苦手なんです」

 甘い物が苦手なのは知ってる。コーヒーはいつもブラックだから。

 やんわりと断りを入れてるのに強固な態度で見つめてくる視線に、わざとらしくほほ笑んで手元を覗くと、知ってる単語が目に映った。なぁんだ私と同じ、理工の学生だったんだ。

 教授の名前を口に出すと、驚いた顔をしてこっちを見る彼。小さな目が、いつもより大きくなってて何だか可愛らしい。

 笑いを堪えながら手元にある資料とペンを拝借して、勝手に書き込みしてあげた。きっと私のように忙しくして、谷村教授に目をつけられたんだろうな。

 資料の書き込みをしながら彼を盗み見みすると、こちらをポカーンとした様子で見ていた。

 書き込みを終えて資料を手渡そうとすると、あたふたする彼の姿に自然と笑いが溢れる。まるで、史哉さんといるときの自分を見ているみたいだった。

 手元のココアを下げようとしたら私の手を制し、飲みますと言う。甘さ控えめであることを告げると、また驚いた顔をする。

 店員として常連客の好みを知ってるのは、仕事の範疇なんだけどね。

 林檎のように真っ赤になってる彼から離れて、カウンターに戻る。久しぶりに笑わせてくれた彼に、心の中でそっとお礼を述べた。

 その後、彼からレポートのお礼を告げられたけどお客様への対応宜しく、素っ気ない返答をする。

 私には史哉さんがいる――これ以上関わらせるわけにはいかない。

 諦めてくれというのを遠回しではあるが態度に出し、それ以上踏み込ませないようにしっかりバリケードを張った。

 それでも彼は週1、2回来店し、コーヒーを注文していた。

 あのとき関わらなければ良かったと後悔している矢先に、驚いた珍事があった。
< 6 / 58 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop