ブロンドの医者とニートな医者

イギリス人の医者

自分の彼氏がイギリス人だということは、誰にも言ったことがない。

 この2年間で、同級生や会社の人と話す中で、彼氏がいると言ったことはあるが、そこまでだ。

「あのさぁあ……」

 乗りなれた白いベンツのオープンカーの右隣に腰掛け、左のイアンを見上げる。

「……」

 彼は、薄いサングラス越しにちらとこちらを見ただけだ。

「…オープンカーって……天気がいい証拠だなあって感じるねえ……」

 最初は、すごい車だなあ、しかもベンツだと、落ち着かない気持ちで乗っていたが、そんな気分も今はあまり出てこない。時折、ドライブで遠出した時などに「すごい車!」と言われてイアンを見上げたりするが、彼の耳にはそんな言葉はなんとも入ってこないようだ。

「……そうだな」

 イアンは基本的に寡黙な人だ。冗談は言わない。でも、こちらの冗談を優しく受け止めてくれるし、いつも、本当に優しく包んでくれている、と、よく思う。

 仕事が忙しいのは分かる。それでも、メールや電話もわりとマメにくれるし、今まで旅行も近くだけど、2回行ったし、それなりに、ちゃんとした、彼氏と彼女だと思っている。

 だから、律子が言ったことは特に気にはしていない。

 だけど、……もちろん、気にならないわけじゃない。

「あのさぁあ」

「何だ?」

「イアンってさあ、脳神経外科のお医者さんなの?」

「それがどうした」

 日本語は流暢だがぶっきらぼうだ。そういえば、どこで覚えたのだろう。

「……そういえばそうなのかなって」

「帝東医科大学病院 脳神経外科 だ」

 そんな長い名前だったんだ。

「………お医者さんになって何年くらい経つの? 出会ったときからそうだったよね?」

「4年だ。2年大学を飛び級している」

 思いもよらない過去の栄光に、奏は驚いて、その方に体を向けた。

「えっ、飛び級してるの!?」

「あぁ。日本でもたまにあるだろ」

「いやまあ、あるのかもしれないけど……滅多になくない?」

「滅多……まあそうかな」

「すごいんだねえ……」

 すごい人だということは分かっている。

 イギリス人でお医者さんで、ベンツで、いつもよさそうな服を着ているし、そもそも恰好良いし。キラキラのブロンドの長い髪の毛と、普通の日本人の自分が一緒に歩いていても、合っているとは思われないだろうし、自覚もしている。身長185センチと158センチ。そこからして、釣り合っているとは言い難い。

「あのさあ、会社の先輩の彼氏がね、お医者さんなんだって。それでちょっと聞いたんだけど、イアンも論文とか書いてるの?」

「もちろん」

 2年間も全く知らなかったことに、溜息が出る。

「それってさあ……どんな内容?」

「今は、僧帽弁閉鎖不全症についてだが」

「……」

 まず漢字が分からない。

「全然分かんないねえ……」

「愛子は健康なんだ、知る必要もない」

「………」

 さらりとそう言ってくれると、優しい人だなあと心底思う。

「……この前さぁ」

「……」

「この前……。

 私、いつも都立病院の前のパン屋さんでパン買うんだけどさぁ。そこのパン屋さんでお医者さんに出会ってね」

「………名前は? …もしかしたら、知り合いかもしれない」

「大河原 淳 先生」

「……よくフルネームが分かったな」

 低い声にドキリとして、左側を見上げた。彼の視線は、目の前の赤信号だけを見ている。

「か、会社の、社員証みせてくれたんだよ。その、パンをもらって」

「………」

 自分の声が言い訳じみたように聞こえて、そのまま黙った。同じ医者として、嫉妬したんだろうか。

 いつもの優しい雰囲気が引いているのが分かる。

 今まで、嫉妬らしき感情を感じたことがなかったが、少なくとも、優しい雰囲気がまるでなくなっていることだけは確かだった。

「……」

 パンをもらったいきさつを話した方がいいのか、話さない方がいいのかわからず、ただ、お互い黙る。

「…………、パンをもらう、とは?」

 先に聞いたのは、イアンだった。

「パンは……その」

 疚しいことなど決してない、のにも関わらず、その低い声に先が進まない。

「……パン屋でパンをもらったのか?」

「……そうっちゃそうだけど……」

「その時社員証を見せてもらったのか?」

「……まあ……そんな感じで……」

「なぜ社員証を見るに至った」

「……流れで……」

 隠しているわけではないが、次々質問が飛び、イアンの感情がいつもと違うことが、ただ分かる。

「分からないな、さっぱり」

 イアンは大きくUターンをかけると、元来た道を戻り始めた。

「え……」

 ちら、とその横顔を見た。いつもとあまり変わらない無表情だが、間違いなく、ランチに行く気分にだけはならなかったようだ。

「………」

 今日のランチは期間限定で、今日が最終日だから楽しみにしてたのに……。そのために、朝も食べてない。

 イアンの初めてともいえる攻撃に、内心戸惑いもしたが、今日のランチが期間限定の最終日だということの方が、ショックだった。たったそれくらいのことで、と不服な感じしかしない。

「……」

 このまま、ランチを食べずにどこに行くつもりだろう。

 帰るんだろうか。だとしたら、どこに……。

「最初から詳しく説明してくれたら、もう一度Uターンする」

 一応質問には答えたのに、そういう風に上から目線で言われると、もういいよ、と思ってしまった。

 まず、そんな大した話ではない。

「……」

 しかも、今からランチに行ったところで、楽しい会話をどうやってすればいいか分からない。そもそも、イアンはあまりしゃべらないから、私がずっと気を遣ってしゃべらないといけない。

「……」

 そのまま30分以上無言で走り続け、ついに、イアンの自宅マンションまで来てしまう。

 地下の駐車場に車を乗り入れて、オープンカーの屋根を戻す。その作業の間、

「先に中に入っていてくれ」

 そういわれて、キーを渡され、仕方なく降りて行き慣れた部屋に入って待っておく。

 付き合って2年。そこがイアンの地雷だったんだなと初めて分かったことだった。

 医者……がダメなんだろうな。イアンのプライドが高いと感じたことはなかったが、同じ医者のことを出されたら、黙っていられなかったんだろう。

 それは分かるが、にしたって、自分はイギリス人なんだから、日本人の医者の話なんか適当に聞き流せばいいのに……。

 高層マンションの大きな窓から下を見下ろす。

 イアン……もう30歳なのに、これからどうするんだろう。イギリスだと30歳までに結婚したいとか、そういうのはないのだろうか。

 お医者さんで恰好よくて、お金もあるから、色々声もかけられるだろうに、なんで私と付き合っているんだろう……。

 ふと、律子の言葉が頭を過る。

 でも、私は別に、結婚したいとか特にないし、あんまり深く考える必要もない。

 しばらくしして、イアンが戻ってくる。

 窓際に立ったままの奏は、戸口に突っ立ったままのイアンをちら、と見てまた窓に視線を戻した。

「何故詳しく話をしない」

 普段は何も感じないその、俺様目線の口調が今は気になって仕方ない。

「…………大した話じゃないから」

 ようやくそれだけ言葉になる。

「どういういきさつかということだけ聞いている」

 何もしていないのに、攻められている気がして早口でまくし立てた。

「だからパンをもらったんだって。よく行くパン屋で知り合いになって、その日一個しかなかったパンをもらっただけ。次の日お礼を言った時に社員証見せてくれたの。それだけ」

「何故それを最初から話さない」

 そんな、わざわざ家まで帰って話す話じゃないし……。

「なんか色々質問してくるから言いにくかっただけ。だってこんな大したことのない話でこんな…ランチまでダメになるなんて思ってなかったし」

「……今から行けばいい」

 イアンの声がいつもより優しくなった事に気づく。

「……」

 ランチは15時までだから、今すぐ出たら、間に合う。

 奏は、壁にかけてある時計を確認してから、

「……行くの?」

と、問いかけた。

 視線を合わせたイアンは、少し表情を作り、こちらに寄ってくる。

 先にそういう優しい顔をされると、こちらが悪者みたいに思えてくるから、嫌だ。

「愛子がランチに行きたいのなら、行けばいい」

 長い2本の腕が伸びてきて、体が、その胸の中に入っていくよう、勝手に吸い込まれていく。

「心配しただけだ」

 分かってる。でも、そんな悪い人じゃなかったから、大丈夫だよ。

「大丈夫」

 それだけ答える。

 腰のあたりでバイブ音が聞こえた。

 表情を険しくしたイアンは、私から腕を離してすぐに電話に出る。

「はい………、あぁ……、………ふぅー………」

 何の話か知らないが、雰囲気的に病院だろう。溜息をつき、こちらをじっと見つめている。

 どっちにしたってランチ、行きそこねてたんだ……。

 奏は、なんとなく笑顔を作って、イアンに見せた。しかし、イアンは同じ表情のまま、

「……いや、それでは血栓の元になる……」 

 私を気遣って仕事に行くかどうかという内情なのかと思ったが、実はそうではなく、素直に患者さんの容態を心配しているようだった。

「………すぐに向かう」

 溜息を押しとどめて、窓の外を見つめる。彼氏がお医者さんがいいなんて、世の女性は多分、どうかしている。
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