ブロンドの医者とニートな医者
 翌日、律子に医者の名前のことを聞こうと思ったが、その話をするにはまず自らの彼氏のことを知り、対策を講じておかなければならないことを思い出し、大河原のことを聞くのは辞めた。

 というか、自分の彼氏に都立の大河原という医者のことを聞けば知っているかもしれない。だがしかし、それを知ってどうするのか、彼氏が大河原を知っていたとしたら安全な人だと分かって、このもらった昨日のパンを食べるのか、知らないと言ったら捨てるのか、というどうでもよい結論しか待っていないことに気づいて、聞くのをやめた。

 だが、人から人づてに何百円といえど、パンをもらっておいて、そのままということにもいかない。

 まあ、次あのパン屋でもしも会えば挨拶をすればいいし、会わなければそのままでいいし……。

 実際、あのパン屋には二度と行かないという方法もある。

 だけれども、……パンがおいしいし……とある程度自分に嘘をつき、大河原という人間がどんな人物であるのか興味を抱いた奏は、昨日と同じ21時前にパン屋に行こうと決めて残業を開始した。

 だが、途中で、21時ではすれ違ってしまうかもしれず、20時半にカフェに行って待っていればいいかと思い直し、気づいた瞬間、退社していた。

 20時半すぎ。昨日より時間は早いが、同じように人気がない通りの前で、カフェの前のベンチに人が座っているのを少し遠いところから発見した。

 よくよく見る。

 タバコを吸っているが、昨日の男性だ。

「あ、あの!!」

 少し遠目から、思い切って声をかける。

 その声を聞いてから、男性はこちらを向いた。

「あ、あのパン。昨日ありがとうございました!」

 頭を下げた。

「あぁ……」

 男性は、どうでもよさそうに、灰を携帯用灰皿へ落とす。

 昨日は随分積極的に声をかけてきたのに、今日はかなり面倒臭そうで、奏の中に一気に後悔の念が生じる。

「……」

 それ以上の会話がなくなってしまい、仕方なく、横切ろうとする。

「あのパン、食べた?」

 奏は立ち止まり、男性を見た。が、その視線の先は、タバコを吸っているせいか、遠くにある。

「え、あ、はい」 

 答えた瞬間、男性は小さく笑い、

「ハーブパン、食べられたんだ」

「…………」

 奏は固まってしまった。今まで一度もこのパン屋でハーブパンを買ったことはない。しかしそれを、この男性が見ていた!と思うと、恐怖がにじり寄ってくる。

「あー……いや、アップルパイを買いに来たのに、ハーブパンも2個食べられたんだ、って思ったんだけど」

 こっちの固まりを察知したのか、詳しく言い返してくる。

「……だ、大丈夫です」

 毒入りを案じて1個も食べていないとはさすがに言えない。

「あの……お医者さんなんですか?  昨日の警備員の人が、大河原先生って…」

「ん? そう」

 男性は、さらりと、ジャージのポケットからクリップがついたカードを見せてくる。

 よく見ると社員証のようだ。顔写真入りで、 都立病院 心臓血管外科 大河原 淳 と記されている。

「本物……みたいですね」

 無意識に口から出た。

「偽物なわけないじゃん」

 言いながら、大河原はカードをポケットに戻した。

「あ、すみません。疑ったわけじゃなくて……」

 会話が続かなくなる。

「あの、昨日はありがとうございました、とお礼を言いたくて……よかったです。ここで、会えて」

「あそう」 

 大河原は、少し口元を緩めたがすぐにタバコをふかした。

「……」

 また大河原のスマホのバイブ音が鳴り、カードが入っている方とは逆のポケットから取り出し、

「はい」

 とすぐに出る。とても忙しそうだ。

「……うん、今すぐ検査に回して。結果次第で即手術。………、待てそうになかったら俺がやる」

 電話を切ると、すぐにタバコを片付け、立ち上がった。

「お忙しそうですね」

「まだ飯も食ってないよ」

 どことも見ず、ふーっと長い息を吐く。

「……もう9時近いですし…おなかすきますよね」

「昨日から食ってない」

 大河原は、すぐにパン屋に入った。おそらく、すぐに出て来て帰ると予想した奏は入らずにそのまま外で待っておく。最後に挨拶してから別れよう。

 予想通り、大河原はすぐに出て来きたが、紙袋を2つ持っており、1つを手渡してくれる。

「え」

 またパンをもらってしまっても……。

 大河原は、構わずその場で紙袋から個別のビニール袋を出すと、頬張り始めた。昨日から食べてないって……どれだけ忙しいんだろう……。

「あ、あの、これ……」

「アップルパイ、残り一個だったから」

 なるほど、中身は1個くらいの重さだ。

「すみません、お気遣いいただいて……」

「いや」

 信号待ちになる。パンはすでに1つ食べられてしまっている。

 紙袋の中にはまだパンがありそうだが、もういいようだ。手術前に食べ過ぎて吐いてもいけないのかもれしない。いや、こんな冷徹っぽい医師が、手術で吐くわけないか……。

 信号待ちが長く感じる。

 奏が信号を待つ必要などどこにもないのだが、無意識に待ってしまっていた。

「昨日からお忙しかったんですか?」

「さっき手術室から出てきたとこ」

「……、……昨日から何件か手術があったんですか?」

「いや、1件」

 言うなり、前に進んでいってしまう。 一件の手術で……え、24時間近く手術してたってこと!?

「……」

 一緒に進んでしまいそうだったが、自分が病院に行ってもできることはない。

「あの、ありがとうございましたー!!」

 奏は、信号を渡り切った大河原に大きな声で言う。

 言っても何もかえって来ないような気がした。

 だが、彼はこちらを振り向くと、車道越しに

「今日は買ってきたばっかだから食べられるだろー!」

 完全に見透かし、ふっと笑って、再び緊急夜間入り口の中に消えていった。
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