いちばん近くて遠い人
9.迷子の子ども
 結局、お客様に会うから身なりを整えろのお客様に会うことは一度もなかった。

 あれからはといえば、散々歩いた。
 地図を渡されて言われたのだ。

「あのマンションを売るのに重要な街の情報を書き込め。
 まずはこのカフェからでいい。」

 そこから回れるだけ見て回った。
 事務勤務の、か弱い女をなめてもらっちゃ困る。

 今日はそこかしこが筋肉痛だ。
 それに………。

「この通りは何軒かカフェがある。
 その中で南はここを選んだのか。」

 そう言われてこれが試験のようなものだったんだと肝を冷やした。

 口の端を上げた加賀さんに大袈裟じゃなく寿命が縮んだと思う。

「なかなかいいチョイスだ。
 俺もここはこの街の中で好きなカフェの1つだな。」

 今度は柔らかな笑顔を向けられて、それはそれで直視出来なかった。
 カフェの2人掛けがこんなに狭いことを初めて実感した。


「南ちゃん。あなた出来る子ね。」

 美智さんの言葉に現実へと引き戻される。

 営業は営業成績が良ければそれだけ仕事をこなしているわけで、事務処理も膨大な量になる。

 実は、しれっと営業成績トップの加賀さん率いるメンバーは誰も彼もが好成績。

 よく今まで専属の事務がいなかったものだと畏れ入るほどだ。

 各自で事務処理も済ませていたり、他の課に任せてみたりしていたらしい。

「こっちが本職……って言ったら変ですけど、総務部でしたので。」

 加賀さんにも聞こえるようにわざと言ってやった。

 聞こえているのか聞こえていないのか。
 彼も黙々とパソコンに向かって難しい顔をしている。

 あれは聞こえてないな。

 それにしてもこの職場に来てから、今までの1ヶ月分くらいの会話を1日で済ませている気がする。
 それほど話さない日々から怒涛の話さなきゃやってられない日々へ。

「南ちゃん。この処理も出来る?」

 美智さんから頼られて悪い気はしない。
 何より本当にサバサバした気持ちのいい人だ。
 仕事がとてもやりやすい。

「任せて下さい!」

「んー!南ちゃん可愛い!!
 今の顔、私だけの限定にして。」

 え?顔?ヤダどんな顔?

 動揺していると隼人さんも話に加わった。

「何?どんな顔?
 見たかったなぁ。」

「俺も見たいなぁ。南ちゃんの癒し顔。」

 武蔵さんまで!
 加賀さんは相変わらず自分の世界に没頭している。

 今日は珍しく全員が席にいた。

 なんでも月に1回の事務処理デー。

 加賀さんが決めたらしく「寂しん坊の雅也はみんなでやりたいんだとよ」と、武蔵さんの言葉を借りるならそういうことらしい。

 けれど。
 確かに効率はいい。

 みんな手分けして協力しあっているのを見ると、だから専属事務はいらなかったんだと納得した。





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