水竜幻想
汚れを落とし、十分に温まった常葉が湯から上がるとすっかり日は暮れており、四季の庭全体に月明かりが煌々と降り注ぐ。  

厨に行き、青菜と茸を入れた粥を作る。
常葉はそれをよそいだふたつの椀を盆にのせて屋敷に戻った。

「竜神さま?」

春の簀子から呼びかける。すると、月の光が満ちる庭にその姿が浮かび上がった。

「よろしければ、召しあがっていただけませんか」

もしかしたら人とは違うものを食するのかもしれないが、常葉自身が独りきりで食事を摂ることを寂しく思えてきたのだ。

ゆっくりと簀子に近づいた竜神は、勾欄越しに椀の中身を覗きこむと眉根を寄せる。

「お庭に生えていたものを勝手に採ってしまったのですが……いけなかったでしょうか」

「いや。泥にまみれていた理由はそれだったのだな」

呆れながらも納得して肯いた竜神は、階から簀子にあがり常葉の隣に座った。

「それから、このように立派な衣までお借しいただき、ありがとうございます」

手をつき頭を下げてから、両袖を広げてみせる。千歳緑の小袖は、色白の常葉によく似合っていた。
 
「それはもう、そなたのものだ」

常葉から目を逸らし椀を取る。
山の幸がたっぷりと入った粥をすする竜神のごくりと動く喉もとを、常葉は固唾を呑んで見守った。

「……草だな」

竜神が苦い顔をすると、常葉は肩を落とす。

「お口に合わなかったようですね。申し訳ありません。では、御酒はいかがでしょう。古より、大蛇《おろち》は大酒飲みだといいますし」

瓶子に用意した酒を盃に注いで手渡した。

「それはおそらく、吾ではない」

竜神は仏頂面で盃を傾けるが、どうやらこちらは嫌いな味ではないらしい。ちろちろと舐めるように、杯を重ねていく。

常葉は椀の中の粥をゆっくりと減らしながら天を仰いだ。
虫の声さえ聞こえない静かな夜。中空に浮かぶ月は望月に近いが輪郭が朧で、まるで水面に映したかのようだった。

「竜神さまは、どれくらいここにお独りでいらっしゃるのですか」

「さて? 千か万か。数えてなどおらぬな」

酒盃を置き席を立った竜神は、夜桜の下で竜笛を構える。

気の遠くなるような歳月を過ごしてきた竜神が奏でる調べは、散りゆく桜より儚げで、天に在る月よりも孤高に感じられた。
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