水竜幻想
――あぁ、そうだ。俺は竜神様に召されたんだ。

頬に感じた冷たさに、ハルはのろりと重たい瞼を持ち上げる。
ここはどこだろう。見慣れない高い天井が焦点の合わない眼に入る。

身体を起こそうとするが、杭で打ち付けられているように重たく、ぎしぎしと音が立ちそうに凝り固まった首だけを漸う巡らせる。
板の間に寝かされているようで、左側には手が届かないほど離れた場所に几帳が立てられていた。
右手の開け放たれた妻戸の向こうには、青々と茂る草木と、薄紅の山桜の花弁が舞い落ちる様子が、まだ薄ぼんやりとする視界に映る。

竜神様のおわす地とは常春なのだろうか。柔らかく吹き込むそよ風が、濡れていた頬を心地よく撫でていった。

次第にはっきりしてきた視力が、こちらに背を向けて庭に立つ人影を捉える。
その他を寄せ付けない玲瓏たる佇まいに、ハルは本能的に悟っていた。

「……竜神、様」

ほとんど音にならない声が届いたのか、おもむろに振り返りハルを眇め見ると、白い玉砂利の上を滑るように歩み寄ってきた。

高い位置から見下ろされても、身体中に痛みが走り自分の意思では指の一本も動かせない。それなのに、喉の奥からひゅーひゅーと息が漏れ、手足が勝手に震え出す。

耳元で衣擦れの音がして、いままで嗅いだ事のない香りが鼻腔に届くと、ふいに全身を搦めていた力が解かれる。
ハルは呼吸さえもが楽に感じ、何度も大きく息を吸い込んだ。

「ようやく目覚めたか」

枕元に片膝をついて覗きこむ精悍な美貌と眼が遭い、ハルは慌てて飛び退くと板の間に額ずいて畏まる。

「しっ、失礼いたしましたっ!竜神様の御前で寝そべるなどと、ご無礼つかまつりましてございまして……あれ?」

慣れぬ口調にへどもどしているハルを、竜神は鬱陶しげに見遣って片手をひらめかせた。

「構わぬ、吾がそこへ放ったのだ。それから普通に話せ。聞き苦しいわ」

床に胡坐をかいた脚に片肘を乗せ頬杖をつき、下がったままのハルの頭を眺める。

「痛むところはないか? その様子では身体は問題なく動くようだな」

「はいっ……たぶん」

たとえ痛みがあったとしても、吹き飛ぶほどに混乱している今は、分からないというのが本音だ。

「ならば、さっさとこの山を降りるがよい。早う去ね」

大儀そうに言い捨てると、立ち上がり室を出て行こうとする竜神を、ハルが呼び止めた。

「お待ちください」  

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