人魚のいた朝に
1.

彼女と出会ったのは、小学五年の夏休みだった。

若狭湾に面した小さな町で診療所を営む祖父が、その春ぎっくり腰を患った。
それまで東京の大学病院で内科医として勤めていた父は、母と相談して家族を連れて故郷であるその町に戻ることを決めた。
もちろん東京の学校に通っていた僕と兄二人も一緒に引っ越すことになり、夏休み明けに転校することが決まった。

東京から車で六時間以上かかる父の故郷へは、僕がまだ小学校へ上がる前に遊びに行って以来だった。
だから夏休みのお盆過ぎに引っ越したその場所に、僕たち兄弟は正直戸惑っていた。

高層ビルも、スクランブル交差点も、ショッピングセンターも見当たらない。もちろん地下鉄だって走っていなくて、何より町を歩く人が少ない。
海水浴に訪れた観光客を何組かは見たけれど、毎年家族で行っていた由比ガ浜の海水浴場に比べると、驚くほどに少ない。
町とは言うものの、十年前に近くの村々と合併するまでは、この場所も小さな集落の一つでしかなかったらしく、海水浴場として運営し始めたのも、つい最近のようだ。今は穴場として、一部の観光客から人気を集めているらしいけど。
正直、夏が過ぎたらこの町から、誰も居なくなってしまうのではないかと心配になったほどだ。

前を見れば海。振り返れば山。
今まで自分が暮らしていた環境とは違い過ぎて、引っ越したその日から不安が募った。
学校に馴染めるだろうか。友達は出来るだろうか。
昔から自分が人見知りだと自覚している僕は、社交的な兄二人以上に憂鬱になって、引越しの翌日に熱を出して寝込むことになった。
「この町に来て最初の患者がお前とはな」と父は笑ったけれど、僕は全然笑えなかった。

結局、家の外を出歩けるようになったのは、引越して来てから三日後のことだった。
海岸沿いの家々を抜けて、山へと続く坂道を十分ほど歩いた場所にある新しい自宅は、同じ敷地内に父が祖父から譲り受けた診療所もある。
数年前に一度建て替えたから、大きくはないけれど綺麗だ。
僕たちが暮らす家も、この引越しに合わせてリフォームをして、祖父母と僕たちの二世帯で暮らせる家になった。

「ひるま診療所」

掲げられた看板を読み上げてから、海へと続く緩やかな坂道を下り始めた。
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