人魚のいた朝に

「お前、よう笑えるな」

「え?」

顔を上げると、太一が呆れたように眉を下げた。

「俺は今でも、お前以上にあいつを想っとる男はおらんと思っとる」

「・・・うん」

「だらか、お前も幸せにならんと、納得出来へんわ」

そこまで言った太一が、勢いよくビールを飲み干した。

「もしも願いが叶うなら、」

「ん?何?」

「帰りたい朝がある」

「帰りたい、朝?」

「やり直したい一日がある」

今でも後悔している。
小さくなっていく彼女の背中を追いかけなかったことを。
何度も僕の背中で涙を流した彼女の本心に、気づけなかったことを。
苦しくて、辛くて、上手くいかないことばかりかもしれないけれど、それでも彼女と生きることを選ぶことが出来たら、その先のどんなことも乗り越えられたかもしれない。
だけどあの日、僕はただ立ち尽くすことしか出来なかった。

「やり直したい一日か・・・」

「・・・うん」

「それで、お前はちゃんと幸せになれるのか?」

「どうかな」

「おい!」

また顔を顰めた太一に、つい笑ってしまうと、ピーナッツの殻を投げられた。

「俺は、真剣に聞いているんだぞ!?」

「ごめんごめん」

「たまには親友である俺の気持ちも考えろよ」

「うん。そうだね」

視線を戻したノートには、懐かしい彼女の文字が並ぶ。
『八尾比丘尼』そう書かれた文字の上を、そっと指で撫でた。

彼女の書く詩が好きだった。
優しくて綺麗で、だけどせつない恋の詩。

「幸せが、どういう形になるかはわからないけど」

「え?」

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