初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
 馬車を屋敷に戻らせると、アントニウスは馬車から外した一頭の白馬にまたがってアーチボルト伯爵邸を目指した。
 門番に見とがめられぬように馬を降りると、近くの木に馬の手綱を結んだ。それから、正門から少し離れ、フェンスの高さが低くなったところでフェンスを乗り越えた。
 馬も降り、フェンスを乗り越えた時点で正面玄関からアレクサンドラを訪ねることはできないが、主だった家人が出かけている屋敷の中で灯りがついている部屋は数が少なかった。
 これも日頃からの節約の賜物で、家人のいない部屋の灯りは徹底的に落として節約する習慣が使用人全員に染みついているからだった。
 ゆっくりと屋敷の方へと進んでいくと、一階の窓辺で灯りが瞬いていた。
 アントニウスは足早に屋敷に近づくと、明かりが家令による見回りか、使用人なのかを確認しようと、部屋の中を覗き込んだ。
 そこは図書室のようで、蝋燭の灯りを頼りに本を探しているのはアレクサンドラだった。
 少し痩せたように見えるその面差しに、アントニウスは後先も考えずに窓を静かにノックした。
 突然のことに驚いたアレクサンドラが振り返り、ゆっくりと窓の方へと歩み寄ってきた。そして、蝋燭の灯りにアントニウスの姿が映し出されると、その表情から脅えが消え、アレクサンドラは窓のカギを開けた。
「こんな夜分に申し訳ありません」
 アントニウスが謝罪すると、アレクサンドラは窓から離れ扉の方へと歩いて行った。そして、カチリという金属音が聞こえた。
「この図書室は、家令も利用することを許されていますから、念のため鍵をかけておきました。こちら側から鍵が刺さっていれば、断りなく入っては来れませんから」
 すっかり物腰も言葉遣いもレディになったアレクサンドラに、アントニウスは眩しささえ感じた。
「どうぞ、お入りください」
 窓の高さからいって、アントニウスに乗り越えられない高さではなかったが、それをしてしまうと、ロベルトとの約束を破ることになるような気がして、アントニウスは躊躇した。しかし、暖炉に火の入っていない図書室は、窓を開けただけで急激に温度がさがってしまう。アントニウスは決心すると窓枠を乗り越えて図書室に入ると窓を閉めた。
「アレクサンドラ嬢・・・・・・」
 改まって呼ぶと、アレクサンドラは不思議そうにアントニウスの事を見つめた。
「もしかしたら、いらっしゃるのではと思って、一階に降りておりました」
 アレクサンドラの言葉に、アントニウスは驚きを隠せなかった。
「両親とジャスティーヌが共に出かけることは珍しいですから。それに、私が社交界にデビューしてしまえば、初物としての価値が下がってしまうのでしょう」
 アレクサンドラの言葉にアントニウスは自分が歓迎されているのではなく、間もなくに迫ったアレクサンドラの社交界デビューの前に、今までの投資を回収するため、その貞操を奪いに来たのだとアレクサンドラに思われているのだと気付いた。
「愛の言葉も、お世辞もいりません。ただ、あなたの望むように私をしてください」
 アレクサンドラは言うと、するりとガウンを床に落とした。
 既に寝る準備を終えているアレクサンドラが身に着けているのは薄い夜着だけだった。柔らかいシルクは、アレクサンドラの体の線を惜しげもなくアントニウスの前に晒した。
 余りのことに、アントニウスは言葉もなくアレクサンドラの事を見つめた。
「どうぞ、こちらへ」
 そう言うアレクサンドラの指が夜着のボタンにかかった。
 そのボタンが外されれば、それこそ何も隠すもののないアレクサンドラの肌がアントニウスの目に晒されることになる。
「いけません」
 アレクサンドラに触れないと神と母の名に誓ったアントニウスは、慌ててアレクサンドラに背を向けた。
「あなたがおっしゃったのです。あなたを篭絡しろと。でも、私にできるのは、所詮この程度の事です」
 アレクサンドラは言うと、ゆっくりとアントニウスの方に歩み寄ってきた。
「どうぞ、私をあなたのお好きになさってください。その代わり、決して、家の名を貶め、父の顔に泥を塗り、姉の結婚の邪魔となるようなことをしないと約束してください。今夜、あなたが犯す罪は、すべて私の罪。あなたが未婚の娘と契ることで犯す罪は、未婚の私が殿方に体を許す罪として、私一人が背負ってまいります」
 アレクサンドラの言葉が途切れ、パサリと夜着が床に落ちる音がした。
 男としての本能が目覚めるよりも前に、アントニウスはここまで愛する人を追い詰めた自分が許せなかった。ロベルトの前で神と母の名に誓っていなければ、すぐにでも自分の上着を脱いでアレクサンドラの体を覆い、その場に跪いて許しを請い、自分が卑怯ともいえる振る舞いをしていたのは、アレクサンドラを誰にも奪われたくなかったからで、本当は秘密を誰かに漏らすつもりなど全くなかったことを伝えたかった。しかし、アレクサンドラに触れられぬ身では、それもできなかった。
「どうか、おやめください」
 なんとか言葉を絞り出したが、アレクサンドラは納得していないようだった。
「どうぞ、こちらをお向きください」
 震える声で言うアレクサンドラがどれ程の羞恥心に襲われているのか、アントニウスは考えるだけで胸が苦しくなった。
「どうか、服を・・・・・・。そして、体が冷えぬようにガウンを着てください」
 やっとのことでアントニウスが言うと、背後でアレクサンドラが動く気配と衣擦れの音が聞こえた。
「もう、そちらを向いても大丈夫ですか?」
「ガウンに、袖も通しました」
 アレクサンドラの返事を聞いてからアントニウスはゆっくりと振り向いた。
 蝋燭の光に照らし出されたアレクサンドラは落胆したように床を見つめていた。
「私は、卑怯ものでした」
 アントニウスの言葉に、アレクサンドラが驚いたように顔を上げた。
「私は、あなたの秘密を知り、それを利用してあなたの気持ちを私に向けようとした。あなたの気持ちが、他の男のところに行かないようにと。ですが、それは全て間違いでした」
「私には、それほどの価値はありませんし、他の殿方に想いを向けることもないでしょう」
「今宵、私はロベルトに、あなたに指一本触れぬと神と母の名に誓ってきました」
「では、日を改めていらっしゃるのですね」
 再びかみ合わぬ話に、アントニウスはぎゅっと両手を握りしめた。
「アレクサンドラ嬢、私はあなたに恋しています」
 アントニウスの言葉に、アレクサンドラは頬を染めるのではなく、寂しげに微笑んだ。
「私は、どのような愛の言葉も、お世辞も望んではいません」
「アレクサンドラ・・・・・・」
「この身はあなたのもの。あなたの望むようにしていただいて構いません」
「話をきいてください! ちゃんと、私の言葉を聞いてください!」
 声を上げたアントニウスに、アレクサンドラが驚くと同時に、図書室の扉の鍵がガチャガチャと音を立てたかと思うと、扉がノックされた。
『アレクサンドラお嬢様? 鍵をお閉めでいらっしゃいますか?』
「ええ、一人になりたくて」
『いま、お嬢様以外の声が聞こえたような気が致しましたが』
 鋭い家令の問いに、アレクサンドラはスッと手を喉に手を当てた。
「酷いなぁ、じい、このアレクシスの声を聴き忘れたわけじゃないだろう?」
 低いアレクシスの声に、家令は納得したようだった。
『これは、失礼致しました』
 家令の去っていく気配にアレクサンドラもアントニウスもホッと息をついた。
「このような場所を目撃されては、あなたのお名前に傷がつきますから」
 アレクサンドラの言葉に、アントニウスは思わず数歩の距離を詰めた。
「名前に傷がつくのは、私ではなく、あなたです。未来の夫となる相手に、多大なる誤解を与えることになる」
「ご心配はいりません。私は誰にも嫁ぎは致しません」
「なぜです? あなたほどの美しいレディが社交界にデビューすれば、縁談は星の数ほども舞い込んでくるでしょう。ましてや、ジャスティーヌ嬢が王太子妃にと決まれば、ジャスティーヌ嬢に恋をしていた男達の目はすべてあなたに向けられることになります。それこそ、選り取り見取りに」
「賭けは私の負けです。私は、あなたを篭絡することが出来なかったのですから」
「では、我が妻に。あなたが本当に私のものだというなら、その証として、我が妻になってください」
 アントニウスの言葉に、アレクサンドラは頭を横に振った。
「あなたは公爵家の嫡男。その地位と名誉にふさわしい女性を迎えられるべきです。ロベルト殿下が、六ヶ国後を話し、経済にも政治にも詳しいジャスティーヌを妻とするように、あなたには、あなたに相応しい女性が奥方となるべきです。私は、あなたがエイゼンシュタインにいらしたときにお慰めする程度しかできません」
「アレクサンドラ、あなたが何と言おうと、私はあなた以外の妻は要らない。あなたが我が妻にならないというなら、他に妻はいらない。あなたが私のものだと、他の誰の者にもならないというなら、私はそれで構わない」
「アントニウス様・・・・・・」
「私は、私の愛であなたを縛る。それは、秘密のためでも何のためでもない。私があなたを愛しているからだ」
「いったい、何を・・・・・・」
 二人の耳に、門から近づいてくる馬の蹄の音が聞こえてきた。
「お父様たちだわ」
「今宵は、これで失礼致します」
 アントニウスは言うと、素早く窓のカギを開けて窓の外へと身を翻した。
 突然の風にアレクサンドラの蝋燭の火が消えたが、アレクサンドラは急いで窓に駆け寄り、アントニウスが去った窓のカギを閉めた。
 さっきまで寒さを感じなかった図書室の中は冷え切り、一人になったアレクサンドラはぶるりと体を震わせた。それから手探りで蝋燭を手に取ると、ゆっくりと手探りで図書室の扉まで進んだ。
『アレク? 図書室なんかで何しているの?』
 廊下を足早に進んでくるジャスティーヌの気配に、アレクサンドラはやっとのことで鍵を鍵穴から抜いた。
「ジャスティーヌ、蝋燭を落として火が消えちゃって、外から開けてもらえる?」
『わかったわ。ちょっと、待っててね』
 立ち去るジャスティーヌの気配に、アレクサンドラはホッとした。
 今すぐ扉を開けられたら、そこにアントニウスがいたことをジャスティーヌに知られてしまいそうな気がしたからだった。
 外から鍵を開けてもらうまでの間、アレクサンドラはぎゅっと夜着の胸元を握りしめた。
 今夜こそは、全ての決着をつけ、全ての罪を神の前に告白できると、アントニウスが現れた時に思ったのに、勇気をふりしぼり、自分から裸になってまで見せたのに、アントニウスはこちらを見ようともしなかった。
「私は、ジャスティーヌじゃないもんね」
 双子で、他人から見たら見分けがつかない二人だが、アレクサンドラにとって、ジャスティーヌは常に自分より美しく、上品で、素晴らしい、比べようもない存在だった。

「もう、こんな薄着で。体が氷みたいに冷たいじゃない!」
 図書室から出て来たアレクサンドラを抱きしめると、ジャスティーヌは心配そうに言った。
「ねえ、風邪ひいてない? 寒気とかしない?」
「大丈夫だよ、ジャスティーヌは心配症なんだから」
 そう言ってガウンの前を合わせなおしたアレクサンドラの夜着のボタンが一つ飛んで斜めにかかっていることをジャスティーヌは見逃さなかった。
 以前のアレクサンドラならば、夜着に着替える時も一人で着替えていたが、今はライラが着替えを手伝うから、ボタンを掛け違うことなどありえない。つまり、ライラがボタンを留めた後、アレクサンドラが故意にボタンを外したか、誰かがボタンをはずし、アレクサンドラが留める際に掛け違えたと言ことしか、ジャスティーヌには考えられなかった。
 アレクサンドラが階段を上っていくのを見送ると、ジャスティーヌは家令の執務室に取って返した。
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