笑顔の君は何想ふ
幕間 カルマ



 誰もが振り返るほどの美貌を持つ母・沙織と、凡人という言葉が似合う父・遊馬との間に、香織は誕生した。

 美しく優しい母と、さして取り柄はないものの温厚な父との生活は、幼い香織にとって幸せ以外の何者でもなかった。


 しかし、そんな幸せはすぐに崩壊する。


 香織の出産直後から、沙織の体調は不安定になっていた。だが、香織が誕生してから一年間はたまに風邪を引く程度で、大きな問題ではなかった。

 しかし、次第に慢性的な風邪に悩ませされるようになり、一日中寝ている日が増えていく。寝たきりが多くなった妻に代わり、遊馬は仕事の傍ら家事もこなさなくてはならなくなった。


 沙織の両親とは結婚の際に揉めていて絶縁状態であり、遊馬の両親はすでに故人だった。そのため、二人には頼りにできる人がいない。

 愛する妻と娘のために、遊馬は自分の時間を切り捨てる。趣味だったパチンコと晩酌も節約のために止め、香織の夜泣きのために睡眠時間も減っていった。そんな生活の中でも、遊馬と沙織は愚痴一つこぼさず、笑顔で香織に接した。両親の苦労が伝わることはなく、香織は幸せ一杯に成長する。

 しかし現実は過酷で、沙織の体調が良くなることはなく、むしろ悪くなる一方だった。


 仕事と家事、育児に加えて、妻の看病も遊馬が行わなければならなかった。そんな、遊馬にとって地獄のような日々は、望まぬ形である日突然終焉を迎える。

 香織が四才を迎える日、遊馬の最愛の妻・沙織はこの世を去った。享年二十八歳、あまりにも早い別れだった。


 自分の心を辛うじて保つ要因となっていた沙織がいなくなり、遊馬の心は限界を迎えた。香織に対しても笑顔で接することはなくなり、育児や家事も次第に放棄していく。

 まだ幼い香織は、母の死を理解できず、どうして母親がいなくなったのか分からなかった。幾度となく母の居場所を遊馬に尋ねるも、何も答えてもらえないどころか、怒鳴られたり、無視されることがほとんどだった。

 遊馬は仕事を辞め、今まで抑えていたものが爆発したかのように、酒とパチンコにのめり込む。

 一日中パチンコ店に入り浸り、遊馬が家に戻ることはほとんどなかった。空腹を我慢している娘のことを考えることはほとんどなく、きまぐれにコンビニでパンを買っては自宅に置いて、ビール缶片手に再びパチンコ店へと向かうことが日常だった。


 保育園も幼稚園にも通っていなかった香織にとって、遊馬と沙織だけが世界の住人で、家の中が世界の全てだった。
 一変した自分の世界に、幼い香織が抱いたのは父への恨み──ではなく、純粋な疑問だった。

 ──どうして、パパはあんなにも変わってしまったの?

 空腹に襲われ、明かりの灯らない生活の中でも、香織はその答えを探しつづけた。


 沙織が亡くなってほぼ一年が経過したある日、ついに遊馬の貯金が尽きる。このまま働かなければ、香織はもちろん自分が生きることも厳しくなる。そう考えたのちに遊馬が選んだ道は、考えうる限り最悪のものだった。

 パチンコ仲間から話を聞いた闇金業者で、遊馬は金を無心することに決める。

 もう失う物なんて何もない。借りれるだけ借りて、その金もなくなったら自殺すればいい。その後のことはなるようになるだろう。

 そんな考えを抱いていたためか、それともこれ以上の悪事を止めるためなのか、闇金のあるビルへと向かう遊馬に死神が訪れる。


 信号無視した車によって遊馬の体は宙を舞った。車を運転していたのは十代の青年で飲酒していた。人をはねたことによって冷静さを取り戻した青年は、すぐに救急車と警察を呼ぶも、遊馬は即死していた。

 妻を失い、仕事を放棄し、娘を見捨てた平凡な男の命はこうしてあっけなく散った。奇しくもその日は、香織が五歳になった日であり、沙織の命日であった。


 遊馬の死後、天涯孤独の身となった香織は、児童養護施設へと預けられることになる。唯一の救いは、遊馬はまだ借金をしておらず、事故死したことだろう。

 施設には様々な年齢の子が幅広くおり、狭いままだった香織の世界は突然広がった。

 香織と似た理由で施設にいる子も、職員の人達も全員が笑顔に満ちていて、香織の中に一つの考えが浮かんだ。

 そして、施設に入って数日が経過したある日、偶然目にしたテレビ番組によって香織の考えは確信に変わる。

 テレビでは子供向けの教育番組が流れていた。テレビの中では、犬をモチーフにした着ぐるみが、楽しそうに踊りながら歌を歌っている。その歌の題名は、まだ文字を読むことができなかった香織には分からなかったものの、その歌が伝えたいことは理解することができた。

 ──どうして、こんな簡単なことに気づけなかったのだろう。パパが変わったのは、あのときからなのに。

 ずっと笑顔で接してくれた、優しい沙織と遊馬。けれど、遊馬の顔から笑顔が消えたあの日以降、優しかった遊馬はいなくなった。

 ──笑顔だ。笑顔でいれば、幸せになれるんだ。皆が笑顔でいれば、お腹がすくこともないし、皆が優しくいられるんだ。だから、私は笑顔でいよう。そうすれば、皆も笑顔になれるんだ。


 これが両親を失った香織が悟った、たった一つの真理だった。


 ***


 香織にとって、一度目の転機が母・沙織を失ったときであり、二度目の転機が父・遊馬を失ったときだった。そして三度目の転機は、香織が、東堂香織になったあの日に他ならない。


 子供を授かることは、おそらくできないだろうと言われた東堂夫妻は、養子を迎えることを決めていた。跡継ぎが欲しいという気持ちもあったが、それ以上に子育てをすることが夫婦の望みだった。

 一番近くにある児童養護施設へと向かった夫妻は、施設に入ると同時に一人の少女に目を奪われる。その少女は、他のどの子よりも活力に満ちていて幸せに見えた。

 跡取りにするときのことも考えて、男の子を養子にするつもりだった東堂夫妻だが、目を奪われた少女を養子にすることに即刻決める。


 職員から、香織の両親はともに他界していることを伝えられ、それと同時にもう一つの事実を告げられる。
 保護されたときの家の状況と香織の外見から、父親による虐待が疑われていたことを聞いても、東堂夫妻の意志が揺ぐ事はなかった。

 こうして笑顔を愛してやまない少女は、自らの笑顔によって引き寄せた、新らしい両親と出会った。

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