笑顔の君は何想ふ
五章 真っ白な世界



 欲を言うならば、マスターが煎れてくれたコーヒーを飲みながら読みたい。だけど、完璧に休憩モードに入っている、マスターに頼むのは忍びない。

 コーヒーを飲むのは、次にお客として来るときまで我慢するか。

 いざ、読まん!

 声にこそ出さないものの、それくらい意気込んで本を開いたところで、予期せぬ人物が現れた。


「マスターこんにちは! あら? 今日は涼夜君がお仕事している日だったのね!」


 向日葵のように満開の笑顔を浮かべる東堂は、どうやら僕がいることを知らずに訪れたらしい。

 というか、何でアルバイト中だって分かったんだ? 席に座って本を持っているところなのに。どっから見ても客に見えると思うのだけれど……。


「これは運命ね! 今日のお仕事は何時までなの? お散歩に行きましょうよ!」

「……今日は六時までだ。つーか、何でアルバイト中だって分かったんだよ」

「え? だって」


 なぜ僕がそんなことを言うのか分からないといった様子で、ゆっくりと東堂は僕に近づいてくる。女の子特有の甘い香りが鼻腔をくすぐり、思わずあとずさってしまう。しかし、白魚のような指は僕を逃がすことなく、胸元のあるものを掴んだ。


「エプロン、しているもの! お仕事中なのに本を読んでいるなんて、涼夜君は悪い子なのね!」


 そういえば、着たままだった。


「別にサボってるわけじゃない。お客が来るまで休憩していいってマスターに言われたんだよ」


 少し駆け足になった心臓の音をかき消したくて、いつもよりも早口になってしまう。


「でも、私はお客さんよ? 私が来たときに、涼夜君は何も言ってくれなかったわ!」


 残念ながら、僕の中でお前はお客のカテゴリーに入っていない。例えるなら、仕事場に娘が来たお父さんの気分だ。

 しかし、何が不満なのか、東堂の両頬がエサを食べているハムスターのようになっている。

 僕が言うまで、立ったままでいそうな雰囲気だな……。


「……いらっしゃいませ」


 仕方無く言ってやると、一転して笑顔を浮かべる。


「ええ! いらっしゃったわ!」


 いらっしゃったって何だよ、いらっしゃったって。それは訪ねられた側が言うセリフじゃないか?


「で、お前は何しに来たんだよ?」


 カウンターに座って、足をプラプラと揺らす東堂に尋ねる。


「んー? 何となく来ただけ?」


 質問を質問で返すのは止めて欲しい。ただでさえ、コイツの感情は分からないのに。


「とりあえず何か飲むのか?」

「ええ! いつものを頂戴!」

「はいはい。エスプレッソね。マスター、エスプレッソ──」


 僕が言うよりも早く、マスターは準備に入っていた。さっきまではだらけきっていたのに、この変わり身の早さが経営者たる所以だろうか。


「あと、チーズケーキを一つ欲しいわ!」

「いいのか? この時間に食べると晩飯食べれなくなるぞ」

「大丈夫よ! マスターのケーキは美味しいから別腹だもの!」


 そうなのか? スイーツは別腹と言っている女子を、大学でもときどき見かけるけれど、いまいち意味が分からない。結局のところ胃に入るのだから、変わらないと思うが。

 そう思いながらも、キッチンにある冷蔵庫からチーズケーキを一つ取り出す。マスターの煎れたエスプレッソと一緒にトレイに載せたところで、店の扉が再び開いた。


「いらっしゃいませー」


 この時間にお客が来るなんて珍しい。入ってきたのは女の子の三人組で、東堂と同じ制服を身に着けていた。

 バイトを始めて既に三ヶ月ほど経ったけれど、東堂を除いて、花開院高校の生徒が訪れたのは始めてだ。


「私のお兄ちゃんが一度来たらしくてえ、超美味しいって言ってたからさあ!」

「へー! 由美のお兄さん、趣味いいから超楽しみー!」

「ねー! 超期待だね」


 お前らどんだけ超って言うんだよ。

 内心そう思いながらも笑顔を浮かべたまま、三人をテーブル席に案内する。


「ご注文が決まりましたら、お呼び下さい」


 メニュー表を置いて背を向けたところで、聞き覚えのある名前が聞こえてきて、思わず足を止めた。


「あれさ……東堂じゃない?」

「……本当だね。一人で何してんだろ」

「……仕方ないでしょ。あいつ、友達いないし」


 ……何となく、東堂に友達がいないことは察していた。土日はほとんど僕と散歩しているし、前に東堂家に行ったとき、高校に入ってから友達と一緒にいるところを見たことがなくて不安だと、剛毅さんも言っていたから。

 ただ、それは東堂が世間離れした性格をしているからであって、いじめの類ではないと思っていた。


 背後にいる彼女達が、どういう気持ちで話しているのか分からない。もしかしたら無感情なのかもしれないし、同情しいているのかもしれない。だけど、万が一のことが怖くて、振り返ることができない。

 いや、きっと大丈夫だ。東堂に限ってそんなはずはない。


「ねえ、東堂さん。一人で何してるの?」

 誰かが立ち上がったことが、背中越しにも分かった。

 僕に背を向けていた東堂は、彼女の方を見るためか振り返る。そんな彼女の感情円は、今も白色のままだったので、僕は安心して後ろを振り返った。


「──────」


 どうして燕脂色が悪意なのか考えたことがある。そして、僕は一つの結論を出した。

 赤は怒りであり、黒は絶望だ。赤と黒、その二つが混じったのが臙脂色。きっと、絶望から湧き出た怒りが悪意になるのだろう。

 明らかに自分が劣っていることを理解し、そのときに自分を高めようとするのではなく、他人を蹴落とそうとするときに悪意は宿る。


 つまりのところ、東堂香織は目立ち過ぎたのだろう。


 両親は大富豪で、容姿も完璧。

 敵を作るには十分すぎるスペックだ。


「えっと、その」


 少女の問い掛けに言い淀む東堂。いつだって毅然としていて、善悪をはっきりと口にした東堂が口をつぐむ姿なんて見たくない。


「東堂の同級生? あ、僕は一色。僕のバイトが終わったら、出かける約束をしていたから、彼女が来てくれたんだ」


 フレンドリーな雰囲気を、出来る限りに醸し出しながら彼女達に笑いかける。


「涼夜君?」


 驚いた声を上げる東堂に対して、振り返って人差し指を立てて唇に当てるポーズをとる。

 そんな僕を見て、東堂は何も言わずに口をつぐんだ。


「あ、そうだったんですかあ! それは失礼しましたあ!」


 それ以降、彼女達の興味は他に移ったのか、東堂に話しかけることなかった。僕が東堂と知り合いだと知ったからか、彼女達はケーキを食べ終えるとすぐに店を出て行ってしまい、再び東堂との時間が流れる。いつもとは打って変わって静かな時間に、違和感を感じながらも口を開くことができない。

 だけど、心に疑念を残したまま、これから先も東堂の笑顔を見ることなんて、僕にはできない。


「なあ、東堂」


 マスターに聞こえていないことを確認してから、東堂の隣に座る。


「どうしたの涼夜君?」

「学校は楽しいか?」


 少し間が空いてから、いつもと全く変わらない東堂の声が僕の鼓膜を揺らした。


「ええ! もちろんよ! 学校は笑顔に溢れていて、とっても楽しいところだもの!」



 ダウト。



 彼女にこんなことを思う日が来るとは思わなかった。

 いや、思いたくなかった。




 ──そう考えてしまうことは、僕の傲慢だろうか。
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