透明な檻の魚たち
「今日、病院に行っていたんです。僕はただの風邪だから大丈夫だと言ったのですが、母がインフルエンザを心配して」

 インフルエンザ。学校でも何人か休んでいる生徒がいる。一条くんは受験が終わっているといっても体調を心配するのは普通のことだろう。私はせかすように訊いてしまう。

「それで、どうだったの?」
「ただの風邪でした。でも、検査なんかをしていたらこんな時間になってしまって……。病院から走ってきたんですよ。本当は図書室が閉まる前に来たかったのに」

 言いながらも、はあはあと大きく息をしている。いつもはまっすぐな前髪が乱れて、汗でおでこに張り付いている。

 私はほっとして、胸をなで下ろした。

「ただの風邪でも、走って無理をしてはダメよ。本なんて、明日でも良かったのに」
「でも、先生が、待っていると思ったので」

 おでこに張り付いた前髪をかき上げながら、一条くんは言った。

 自分が今日一日、一条くんが来るのを待っていたことを見透かされたみたいで、居心地が悪くなった。思わず、足元に目線を落とす。

「……もう、閉めるところだったんだけど。本、司書室のデスクの上に置いたままなの。ここで立ち話もなんだから、入りましょう」

 これ以上、ここで好奇心に満ちた視線にさらされるのに耐えられなかった。

 不自然な間のあと私がそう言うと、一条くんは呼吸を整えて頷いた。
 ドアのプレートは、少し迷った末、「閉館」のままにしておいた。
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