湖にうつる月~初めての恋はあなたと
社長は私の前のソファーにゆったりと腰掛けると私にも座るよう促した。

一礼して私も座る。

「うちの本店代表から聞いたが、あなたのお父さんが倒れて今入院されているとか」

「はい。幸い大事には至らなかったんですが、一ヶ月ほど厨房に立つことが難しくなりそうで、大変勝手とは思いつついつも卸して頂いている抹茶の量をしばらく半分の量で発注させて頂きたいとご連絡させて頂きました」

「ふむ。それは大変だね。いやしかし、抹茶の量を半分にするってことは誰かその抹茶を使うということだろうか。抹茶は新鮮なものでないと香りを損ねる。保存期間は短いんでね」

社長は顎を撫でながら私を試すような表情をしていた。私はしっかりと社長の目を見つめ返して答える。

「父が不在の間、私が京抹茶さんの抹茶でプリンを作ろうと思っています」

「ほほう、君が?」

社長は目を細めると口角を上げて声に出さず笑う。

そして、まるで子どものわがままを聞き流すような調子で、首を横に振りながらソファーに深く座り直した。

「君は今まで菓子作りの経験はあるのかね。もちろん職としてだ」

「いえ、ありませんが、時々父の手伝いをしていました。そして抹茶プリンに関しては作り方はしっかりと教わっています」

「それだけかね」

社長は深く腰をかけたまま、私の方にちらっと視線を向けた。

「とりあえず、あなたのお父さんが退院し、厨房に立てる時が来たらまたあらためて連絡してもらえんかな」

「え、と言うと?」

顔から血の気がひいていくのがわかった。

「申し訳ないが、あなたにうちの抹茶は売ることはできない。代々京抹茶で守ってきた味だ。その味や風味を損なうような相手には売れない」

「あのっ」

言葉がうまく出てこない。ただ胸の奥がドキドキと騒いでいた。体も頭の中もパニック寸前だった。

「じゃ、私はこれで。お父さんの回復を心から祈っているよ」

社長は静かに立ち上がると、そのまま部屋をゆっくりと後にした。

私は何がなんだか分からず、立ち上がったままただ呆然と社長の出ていった扉を見つめるしかできなかった。




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