神獣の花嫁~かの者に捧ぐ~
声をひそめた甲斐もなく、和彰は咲耶からすれば大き過ぎる音量でもって言い返してくる。
……前から思っていたことだが、和彰の辞書には礼節や年功序列といったものは載って無いらしい。

「知ってる知ってないじゃなくて私たちはここ(・・)のことに詳しくないわけだし、長ってくらいだから偉い人なんでしょ? 礼儀は欠いたらダメだと思うけど」
「──ホ、ホホホホ」

女が軽やかな笑い声をあげ、足を止めた。そでで口もとを隠し、咲耶を振り返る。

「『欠けたりしものを補うが代行する者』。よくできた仕組みですこと。“花嫁”殿、名はなんと申されますか」

猪子の細く鋭い目が咲耶を見据える。あわてて姿勢を正し、咲耶は応じた。

「あ、あの、咲耶です。松元咲耶と申します」
「善き名ですこと。───木花(このはな)殿と同じ名をもつ“花嫁”とは。大事になされよ、白いトラ神」
「言われるまでもない」

咲耶への態度とは裏腹に、和彰に対しての口調は厳しい。しかし、和彰の当然だといった返答に、一転、猪子は破顔する。

「……であろうな。“精神体”にもかかわらず、その姿。よほど“花嫁”殿の目に映りたいらしい」

ホホホホ、と、シシ神の女が笑う最中、低いうなり声のような地響きが咲耶の足裏を伝わってきた。

「地震……?」

揺れを感じてつぶやく咲耶に猪子が否定する。

「いいえ、これはカカ様の身じろぎ──お二方への歓迎のしるしですわ。()れ言が過ぎましたわね。参りましょう」

うながされ、連れ立って行き着いた先に、大きな岩に囲まれた洞穴があった。ぽっかりと口を開いたそこは、深く暗い漆黒の世界。

足がすくむ咲耶の前で、猪子の手が自らの赤茶色の髪を一本、引き抜き、息を吹きかけた。
とたん、ボッ……と、女の手の平くらいの大きさで、火の玉が現れる。

「こちらへ」

燃えつきる様子のないその玉を松明(たいまつ)のように掲げ、猪子はなかへ入って行く。
岩肌が明るく照らされたことにより、先ほどまでの咲耶の不安が少しだけ薄れた。
和彰に手を引かれ、足場の悪い岩の上を、下りつつ歩を進める。

猪子の先導で奥に進み行くと水音が聞こえてきて、湿気が咲耶の頬をなでた。
じきにそれは、湯気なのだと気づく。同時に、硫黄の匂いもただよってきた。
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