銀貨の代わりにあなたに愛を
アンドレの読み通り、彼の紅茶商会はさらに有名になり、顧客が増えたことでいくらか利益を出すようになった。
商いに慣れたグランからすれば、ただ正直に取引を行い、注文された品を売買する際に他の品を薦めていただけに過ぎなかったが、金銭に余裕があり商業に関して詳しい知識も少ない貴族達は、グランの事細かな説明に満足して購入していった。
しかしひとつ、気がかりなことがあった。グランは"ドルセット伯爵子息の紅茶商会・経理係"という名で顧客と会い、手紙を書いていた。客にラグレーンの名前を知られることを恐れていたのである。自分が牢獄にいたことのある人間だと知られない方が利益にも影響はないと考えていたし、実際その通りだった。顧客である貴族とかかわるようになってから、グランは前より一層、彼らの機嫌を伺うようになった。商いに疎いことから利益を引き出せるのではと考えていたが、とんでもない。銀行家時代から感じていたその大きな山々はいつまでたっても高いままで、グランの正体を気づかれてしまえば最後、二度と谷底から這い上がれないところまで落とされるのだという恐怖心を抱いていた。
しかしその一方で、正直に取引を行う伯爵家の紅茶商会は貴族に人気だった。収益を伸ばしてどんどん顧客の増える商会は、そのうちグラン一人で動かすことが困難になってきていた。だがほかに誰かを雇うとなると、彼の正体が世間に知れることは避けられない。

「そんなのいずれわかってしまうことじゃない。今さらなにを迷う必要があるの?」
事務所にドルセット兄妹がやって来たので、グランは人手不足とその問題を申し訳なさそうに述べた。エリーゼは眉を寄せて尋ねると、グランはいつもより暗い声で言った。
「わからないのか? お……私の名前を出せば、顧客はいなくなってしまうんだぞ」
「でも、提供はお兄様なのよ? 値段の面でも、品質の面でも劣らないはずだわ。それに、一番その顧客たちと関わってきたのはあなた自身じゃない。あなたがきちんとした対応をしてくれるから、紅茶を買ってくれるのではなくて?」
「それはそうだが、そんな問題じゃないだろう。アンドレ殿、あなたは私の名前が知れ渡ることで客がいなくなることはおわかりでしょう? 私には前科があるんです……やはり、無理な話だったんだ」
グランは頭を抱えて下を向いていたが、やがて苦しそうな顔をしながらペンを走らせ始めた。
「……私は元の生活に戻ります。世間に出しても恥ずかしくない、もっと信用のある新しい人間を見つけてください。ここに商会の説明書きを残しておきますから、それを見せれば……」
と、アンドレはその書きかけの紙を取り上げると、くしゃくしゃに丸めてしまった。
「アンドレ殿、なにを!」
「お兄様……!」
アンドレは丸めてしまった紙をくずかごに入れると、グランに背すじを凍らせるような微笑みを向けた。
「私はね、ラグレーン殿。人を見る目はないんですよ」
その言葉にエリーゼもグランも眉を潜めたが、アンドレは続けた。
「あなたも最初に思ったでしょう、この商会を一番最初に任せていた貴族の子息は、全く商いに向いていなかったと。私は人選びには向いていないのです」
グランは遠慮がちに頷いた。それは全くその通りだと思ったのである。
アンドレはさらに続けた。
「しかし、妹は違います。エリーゼは様々な陰謀が繰り広げられている社交界で、いとも簡単に悪人を割り出せる。そういう人間には関わろうとしないのです」
エリーゼは肩をすくめた。
「あんなところでなにも考えていない人間はなかなかいないと思うけど」
アンドレは笑った。
「確かにそうだ。だが、エリーゼは自分に害をなす人間には近づかない。小さい時から見てきた私にはそれがよくわかるのです。そしてラグレーン殿、あなたは妹が友人として認めた数少ないうちの一人だ」
「数少ないってやめてほしいわ、確かに友達が多いとは言えないけど……」
エリーゼの横槍を全く無視して、アンドレは言った。
「ですから私は、あなたを信用しています。あなたは商会を正確に運営させ、ここまで大きくしてくれた。私の商会に貢献してくれている人間を……妹が信用している人間を、前科があるという理由で切り捨てるつもりはありません。元よりその覚悟で持ち出した話です。ですから申し訳ありませんが、あなたを辞めさせるわけにはいかないのです」
真剣に訴えるような目で言うアンドレの言葉を、グランは心が震える思いで聞いていた。この伯爵子息とは、仕事の都合上週に一度は必ず顔を合わせていた。顧客や商品に関することで話し合うときもあったが、普段はなにを考えているのかわからず、やはり彼も貴族なのだと警戒していた。だが、今この目の前にいる青年は、妹を信頼し、そしてこの自分さえも信じて味方になってくれている。
俺は……彼を信じていいのだろうか?
グランがなにも言えないでいると、アンドレが柔らかい表情になって言った。
「まず、私と一緒に一軒ずつ顧客を訪ねて話しましょう。あなたの名前を明かして、取引できないと言われたらそれまでです。断られるところもあるかもしれませんが、あなたの商いの真摯な態度に、購入し続けてくれる客も必ずいるはずです」
グランはその言葉にまじまじとアンドレを見ていたが、がばっと頭を下げて絞り出すような声を出した。
「ありがとうございます……!」
「さすがお兄様だわ! 大好き!」
エリーゼが兄に抱きつくと、アンドレは彼女の頭を優しく撫でた。
「エリーゼのためにもがんばらないとな。ラグレーン殿、そういうわけで新しい人員を雇うのは顧客への確認が終わってからにしましょう」
「ええ、その……もしかしたら、顧客が減って人手不足が解消されるかもしれませんが」
グランは後ろ向きに言った。
「グランったら! 仮にもドルセット伯爵家が後ろについているのよ?」
エリーゼの言葉にアンドレも同調した。
「そうです。我々一族を甘くみないでください。あなたの汚名だって返上させることができるかもしれない」
グランは改めてアンドレという男から強い力を感じた。彼の目は自信に満ち溢れている。貴族とはこういう人間の姿をいうのかもしれない。ぼんやりそう考えていると、エリーゼがいつのまにか目の前に来ており、彼の手をぎゅっと握り元気づけるように微笑んだ。
「大丈夫よ、グラン」
グランはその優しげな目に、なんとも言えない感情が胸に湧き上がるのを感じ、戸惑うようにただ頷いた。
アンドレはその様子を微笑ましげに見つめていた。

結果的に言えば、グラン・ラグレーンの汚名よりも、国王の信頼厚い名門ドルセット伯爵家の名前の方が強い力を持っていた。顧客を誰一人として失うことはなかったのである。
最初こそラグレーンの名前をきいて驚き戸惑っていたのは確かだが、「ドルセット伯爵家の元、心を入れ替えて一からやり直している」と述べると、それはあっさりと受け入れられた。
「私のリストに載せた顧客はみな先祖の代から我々一族を信頼している方たちなのです。社交界となると、また話は違ってくるのですが」
アンドレは誇らしげにそう言った。
グランは、世間からのドルセット家の信頼の厚さに、驚きで言葉もなかった。エリーゼが誇りにしていたのはこれか。貴族という立場の気高さにグランは自分の力が到底及ばない気がした。
この信頼は絶対に崩してはならない。そう決意したグランは、ますます真面目に商いに励んだ。


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