銀貨の代わりにあなたに愛を
グラン・ラグレーンの仕事が伯爵家の商会一本になってから、それまでこの辺り一帯を占めていた紅茶の相場に大きな変化が起きた。北国の輸入品ではなく、自国の貴族が商売を始めたことで、皆が驚きの声をあげたのである。革命が過ぎてからしばらく経ったこの時代、貴族の中でも借金が重なり爵位を返上する者や、貧しさを防ぐために大商人と政略結婚を結ぶことで生き長らえる一族もいたが、自ら営む商会で利益を得る貴族はほとんどいなかった。
ドルセット伯爵現当主のベルナールは、辺境の領地でその変化の知らせを聞いた。まさか国王から爵位を賜った者が平民よろしく商いを始めるとは、落ちた貴族もいるものだと思っていた。しかしそれが自分の息子だときいて、飛ぶようにして屋敷に戻ってきたのである。
「アンドレ、一体どういうつもりだ! 貴族の生まれで商売をするような男など息子とは認めんぞ!」
帰宅早々アンドレのいる客間に踏み込み、顔を真っ赤にして怒鳴りつける父に、アンドレはため息をついて言った。
「父上、落ち着いてください。ご自分の心臓に悪いですよ」
「黙れ! 誰のせいだと思っておる、今すぐ商売から手を引け!」
「お父様、とにかく落ち着いて……さあお水を飲んで」
エリーゼが優しい声で差し出した水を一気に飲み干すと、伯爵はいくらか落ち着きを取り戻した。
「ありがとう、エリーゼ……とにかく、アンドレ。すぐにやめる手続きをしろ」
「申し訳ありませんが、それはできません」
アンドレは眉を下げて困ったように言った。
「父上は私がなぜ商いを始めたか、訊こうとはなさらないのですね。まあ理由はご存知でしょうが」
「え? そうでしたの?」
目を丸くして父を見つめるエリーゼだったが、ベルナールは答えずに眉を寄せた。
「……エリーゼ、席を外せ」
「いいえ、父上」
アンドレが止めた。
「彼女はもう成人している。ドルセット伯爵家を名乗る者として知るべきことですよ」
「……一体理由ってなんなの、お兄様、お父様」
ベルナールは目を細めたままなにも言わなかった。
アンドレが言った。
「エリーゼ、利益のあるなしに関わらず、私がいくつかの商会を持っていることは知っているね?」
「ええ、前にきいたわ。全部興味本位か、お父様に対する嫌がらせだと思っていたけど、理由があるの?」
「嫌がらせ……! そうなのか、そうだったのか、アンドレ?!」
アンドレは父親の言葉を聞き流して妹に真剣な表情で切り出した。
「実はね、この伯爵家の財産は底をつき始めているんだよ」
「え?」
エリーゼは目を開いて驚きの声をあげた。
「お金が、ないの……?」
ベルナールは大声を出して否定した。
「な、ないわけではない! 少なくとも次の世代までは余裕があるし、それ以降も領地を手放せばずいぶん楽に……!」
「手放してどうするんです? それで生活できても、困ったら今度は別のなにかを手放すんですか? そんなことを繰り返していては、いずれ爵位は名ばかりになってしまいますよ」
父親の言葉を遮ってアンドレははっきりと言った。
「持っている物を売るだけでは失うばかりです。それより自分で利益を出すべきなんだ。商いをしているからって、我々貴族の誇りは消えませんよ。商会は国王からの許可も得ています。これからは貴族も商いをしていく時代なんですよ」
ベルナールは苦い顔をして黙ったままだった。エリーゼはそんな父を見つめていたが、兄に視線を移した。
「私の……私のせいね? 私が条件の良い家に嫁がないからいけないのだわ」
アンドレは微笑んで首を振った。
「それは違う、エリーゼ。さっきも言ったが、一時的になにかを犠牲にして資金を得ても、長持ちはしないんだ。私は失わずして得ることができる方法こそ、商いだと思っている」
アンドレは大きな手を妹の頭に優しく置いた。
「そして必ず成功する見込みのある、才能ある人間をお前が見つけてくれた」
そう言われてエリーゼは小さく微笑み返した。アンドレはそれを見て満足すると、父親に向き直った。
「あともう何年も経たないうちに、将来的に安定した収入が期待できます。それが失敗したのなら、私は銀行家の娘と結婚するし、領地だって売ってくださって結構です」
ベルナールは苦い表情のままそれをきいていたが、やがて口を開いた。
「ほんとうにそこまで期待できる収入額なんだろうな?」
アンドレは緊張した顔で頷いた。
「ええ、信じてください」
伯爵は息子の目をじっと見ていたが、小さく息を吐くと小さな声で「わかった」と言った。
「生活に困っているわけではない。ただ将来の事を視野に入れなければならないと言われればその通りだ……だが、変な商売に手をつけたら、それこそ縁を切るぞ」
アンドレは頷いた。
「肝に銘じます」
ベルナールはそれを聞いてゆっくりと立ち上がると、部屋を出て行った。
アンドレは妹と二人になると、張り詰めていた空気を溶かすようにふうっと息を吐いた。
「これでラグレーン殿には確実に成功してもらわないとならなくなったな」
「お兄様……」
エリーゼは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「私……私、なにも知らなかったわ」
「教えなかったからだよ。余計な心配をさせたくなくて、一生懸命隠していた」
アンドレは優しく微笑んだ。
「だからお前がラグレーン殿と友人だときいて、びっくりしたんだ。まさかお前にうちの事情を知られてしまったのかと思ってね」
「そんなの知るわけないわよ……。でもこれで、彼に商いだけに専念してもらうようにお願いした理由がわかったわ」
エリーゼの言葉に、アンドレは目をぱちくりさせた。
「おや、確かに家の繁栄のためという理由もあるが、前にも言った通り、お前が彼に会いやすくなるというのも事実だぞ。貴族の娘とただの平民の男なんて主従じゃない限りは顔を合わせないからな。お前は社交界に出向かないし」
エリーゼは肩をすくめた。
「社交界にいる男性は貴族だろうと平民だろうと苦手だわ」
「ラグレーン殿は大丈夫なのか?」
兄のいたずらっぽい微笑みに、エリーゼはツンと上を向いた。
「彼は他の人とは違うもの」
アンドレは妹を意外に思っていた。
「お前が関心を示す人間もいたんだな。思いのほか、落ちるところまで落ちた男だったが。あそこまでの人間は他にはなかなかいないだろう。まあ、もうあれ以上落ちる場所はないだろうが」
エリーゼは兄を睨みつけたが、彼のことを思い浮かべて優しい表情になった。
「グランは……心から安心できるもの、頼れるものがなかったのよ。裏を読む人達の間で生きてきたから、信じることをとても恐れている。だから、前はお金がすべてだったのだわ。彼には、心から信頼できる拠り所が必要だと思うの。真摯に彼に接すればきっとお兄様のことも……」
「まあ所詮、私は彼の上司であり、お前の兄に過ぎない。彼のことはお前を頼りにしている。今の我々の状況で、不正なんか起こされたらたまったものではないからな。今の伯爵家を支えているのは世間からの信頼だ」
エリーゼは眉をよせた。
「彼は不正なんかしないわ。絶対に」
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