銀貨の代わりにあなたに愛を
それから半時ほど経って、エリーゼの待機していた部屋の扉がノックされた。
「失礼いたします」
浴室の女官に連れられて、すっかりきれいになったグランが入ってきた。
宮殿で用意された服は、先ほど着ていた服よりもさらに上質の物のようだった。
女官が言った。
「お召しになっていた服はこちらで洗濯いたしますね。お帰りの時にお声かけいただければと思います……それでは、私はこれで。ホールまでの行き方はわかりますね?」
「ええ、大丈夫よ。ほんとうにありがとう」
エリーゼがお礼を言うと、女官は部屋を後にした。
グランはなにから言おうかと考えあぐねていたが、エリーゼはその女官の去っていった暗い廊下を見つめたままだ。グランは、まずは礼を言った方がいいだろうと咳ばらいをして口を開いた。
「さっきは……」
「こめんなさい!」
と、エリーゼが突然こちらを向いて頭を下げた。グランは目を瞬かせた。
「な、なんで、謝るんだ……?」
エリーゼは頭を上げ、ちらちらとグランを見ながら答えた。
「だって……だって、私ったらとんでもないことを言ってしまったじゃない? あ、あなたが私の、こここ、恋人だって……」
なんだ、それか。グランは苦笑いを浮かべた。
エリーゼはぶつぶつと呟くように続けた。
「友達なんだから、友達って言えばよかったのよね、それはわかっているのだけど、どうしても、その……」
困ったように言葉を紡ぐエリーゼだったが、グランは言った。
「俺が、君と友達だろうと恋人だろうと、どちらにせよ一緒のことだ……君の評判には確実に傷がついた。伯爵家の名にも」
エリーゼはぽかんとした表情を浮かべた後、そんなことと肩をすくめた。
「あれくらいでドルセット家は揺るがないわ。あなたが気にする必要は全くなくてよ」
それから彼女は眉を寄せて言った。
「それよりも、ひどいことをする人達がいたものね。貴族という名を名乗るのも腹立たしいわ。なにが、子爵よ。相も変わらず、社交界の人間は卑劣なことを考えるわね」
グランは、そういえばとずっと頭に抱いていた疑問を言った。
「エリーゼ、君はなぜここにいる? 舞踏会は苦手だと言っていただろう。王都まで出てきて、用事でもあったのか……誰と来た? アンドレ殿はいないのだろう」
エリーゼは、照れくさそうにして舌を出した。
「私はマリーおば様と一緒に来たの、ほらブリュノー家を覚えているでしょう? 彼女の王都の屋敷にここ一ヶ月ほど滞留させてもらっているのよ。それと、今夜の宮殿の舞踏会は来ると決めていたの……その、あなたが出席するってお兄様が言っていたから」
ああ、なるほど。グランは頷いた。
「兄上に言われて君が来たのか」
グランはそう結論づけたが、エリーゼは首を振って思いがけないことを言った。
「いいえ、お兄様は私に舞踏会には行かない方がいいと言ったわ。でも私は行くと決めていたの。だって、あなたと敵対する人間は絶対にあなたを貶めようとするでしょう。だから私がお兄様のように守れたらって思ったの」
「君が兄上のようにって、だが君は……」
エリーゼは笑って肩をすくめた。
「ええ、そう。私はあまり外に出ていないから、突然、当日に舞踏会に行ったところで、顔の広いお兄様みたいに社交界の人達に影響を与えることはできないわ。紋章のアクセサリーを持っていたって、瞬時にドルセット家の人間だって認識してはもえらない。あなたを守るには、みんなに私のことを知ってもらう必要があった。だから――このひと月、王都でのお茶会や舞踏会に毎日のように参加して、多くの人に私の顔と名前を覚えてもらったの。元々マリーおば様からずっと王都へのお誘いは受けていたので、ただお受けしたに過ぎないのだけど。さっきの子爵もこれまでの舞踏会に行っていたおかげで、私が伯爵家の娘であることを知っていたのよ。宮殿の女官まで覚えていてくれたことは嬉しかったけど」
グランは言葉を失った。
それではなにか、彼女は今日の舞踏会の参加者に自分の存在を認識させるために、苦手だというお茶会や舞踏会に参加し続けたのか。しばらくの間、顔を見なかったのは、全部……全部、俺を守るために?
呆然としているグランに、エリーゼは楽しいことを思いついたような表情を浮かべた。
「これから下に降りていって、大勢の前で踊りましょうよ! そうしたら、あなたを否定するということはドルセット家を敵に回すことになるって、みんなわかるわ。あんなひどい目に、二度と合わせるものですか。それからダカン侯爵のところへ行きましょう。そろそろ彼が来ている……」
そこで、エリーゼは言葉を途切らせた――グランに抱きしめられたのだ。
「グ、グラン……?」
呼ばれた彼は、しばらく彼女を腕の中で抱いた状態で黙っていたが、やがて苦しそうな声を出した。
「どうして……どうして君は、俺のためにそんなことまでやってくれるんだ。商会は預かっているが、俺のものじゃない。俺が君に返してやれるものはなにもないんだぞ……俺には、富も、地位も、名誉もないんだから」
抱きしめたまま震える声で問うグランに、エリーゼはふふっと笑うと、優しい声で答えた。
「私は富も地位も、もう持っているもの。あなたになにかを求めているわけじゃない、私が――私があなたを好きだからやっているだけ。それだけの理由よ」
エリーゼの言葉はとてもしっかりとした返事だったが、グランはその理由がとても脆いものだと思った。
「それは……君が俺に興味を持たなくなったら、もうおしまいということか」
「うーん、そうね。確かにその通りかもしれないけど」
エリーゼは少し考えてから、がばっと体を離してグランの顔を見上げ、笑顔で言った。
「でも安心して。あなたから興味がなくなるなんて、絶対にならないから」
グランはその間近で見る愛らしい微笑みに、顔がかっと熱くなるのを感じて、エリーゼからよろよろと後ずさり顔を背けた。
わからなかった。彼女の考える事も、それが貴族の遊びなのかも、自分の飛び跳ねる心臓も。ただ一つ、言わなければならないことがあった。
グランは顔を赤らめたまま、しっかりエリーゼの方を向いた。
「ありがとう、エリーゼ」
エリーゼはその言葉に嬉しそうに微笑んだ。
「いいのよ、私もああいう連中にはぎゃふんと言わせたかったの! さあ、下へ行きましょう」
「その、エリーゼ」
扉を開けようと取っ手に手をかけた彼女に、グランは目を合わせずに言った。
「俺のことは……名目上恋人でもいい」
エリーゼはたちまち満面の笑みに包まれて、彼の腕に抱きついた。

ダンスホールは一番のピークを迎えており、先ほどよりももっと大勢の客で埋め尽くされていた。二人がホールに現れると、騒ぎを知っている者たちの目が一斉に集まった。
「痛いほどの視線だな」
グランの居心地悪そうな様子に、エリーゼは涼しい顔をしてみせた。
「ちょうどいいくらいよ。さあ、踊りましょう」
そうして二人はホールの真ん中まで行くと、手を取り合って優雅に踊り始めた。エリーゼは王都に滅多に来ないとは思わせないほど洗練されたように美しく踊り、彼女の気品は皆の注目を集めた。グランの方は、初めの方こそ緊張した顔をしていたが、彼女のきらきらした笑顔でそのうちに表情が柔らかくなりいつのまにか優しく微笑み返していた。
この決定的な二人の仲睦まじい様子に、グランの過去の悪い噂を公然とすることは、名門ドルセット伯爵家を貶すことだと多くの人間が理解した。
ダンスを終えてホールの中央から抜けようとした時、グランは突然固まったように足を止めた。
「どうしたの?」
エリーゼが彼の視線を辿ると、その先には大勢の人達に囲まれて楽しそうに談笑している男女の姿があった。
知り合いなのかしらと、少し考えてエリーゼははっとした。大勢の人に囲まれている男女二人。前にも見た光景だ。まさか……?
エリーゼはおそるおそる横に立つグランを見上げた。しかし、彼の顔は強張ってはいたが、前のような憎しみの色は浮かんでいなかった。それどころか、なにか恐れを抱いているのか、腕が震えているようだ。

グランは目を見開いていた。少し離れているが、人の集まった中心にいるあの人物、あれは間違いなく、自分が陥れた……そして自分から全てを奪って復讐を果たしたあの男に違いなかった。
しかし、グランの心を占めていたのは以前のような激しい憎しみではなく、恐れだった。
今すぐにでも彼の元へ駆け出してひれ伏すか、あるいは彼のいるこの会場から逃げ出して部屋に閉じこもりたいという思いが込み上げてきて、どうしようもなく身体が動かなくなってしまったのだ。
その時。
「グラン? ……大丈夫?」
エリーゼが自分の腕を絡めている彼の腕をぎゅっと握った。グランは我に返ったように、心配そうな顔のエリーゼを見下ろした。
そうだ、今は彼女が隣にいるのだ。その存在になぜだか心からほっとして、グランは小さく笑みを浮かべてみせた。
「悪い、なんでもないんだ」
そう言うグランを、エリーゼは少し不安げに見つめていたが、やがて優しく微笑み返して頷いた。
そうして微笑み合っている二人の元に、一人の壮年がにこやかに笑いながら歩み寄ってきた。
「いやいやいや、ダンスが上手だとは知らなかったよ、ラグレーン君」
「ダカン侯爵!」
グランはすっと居住まいを正してきちんとした礼を取った。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「安心したまえ、実は今来たところなんだ。家内が支度に手間取ってね。今日の昼頃王都に着いたものだから。ところで……」
ダカン侯爵はにこやかに言うと、グランの少し後ろで控えているエリーゼに視線を移した。
「君と踊っていたこちらの美しいご令嬢は? もしやあなたがドルセット伯爵のご息女だろうか?」
エリーゼはにっこりと美しい笑みを浮かべ、貴族の娘らしく上品なお辞儀をした。
「はい。お初にお目にかかります、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットです。お目にかかれて光栄ですわ。父や兄からダカン侯爵様のことは少し伺っておりますの」
ダカン侯爵も彼女の手を取って挨拶をした。
「こちらこそ、はじめまして。ほう、そうでしたか。しかし……ドルセット伯爵が、こんなに美しいご令嬢を隠していらっしゃったとは」
エリーゼはくすりと笑みを漏らした。
「いいえ、私が屋敷に引きこもっているだけですわ。社交界は苦手ですから」
ダカン侯爵は笑い声をあげた。
「ははっ! 私もですよ。今夜はラグレーン君に会うために来たようなものです。おおそうだ、ラグレーン君。向こうで友人達を待たせているのですよ、ぜひとも王都とは違う商いの話をしてやってください。エリーゼ嬢も良ければご一緒にどうぞ」
そう言うとダカン侯爵は、身を翻してホールの人だかりの中を歩みだした。グランとエリーゼも侯爵の後ろについていく。少し歩くと、出入り口付近の方に何人かの男達が楽しそうに談笑しているのが見えた。
グランは思い出したように上着の内ポケットに手をやってごそごそ探ったが、さっと青い顔になった。顧客の名前や注文内容を書き留めておくために準備した紙とペンを、先ほど女官に託した服に入れたままにしてしまったのだ。
グランはちらっと侯爵の先にいる男達の人数を確認した。6人。それもおそらく全員貴族だ。絶望したような表情を浮かべたグランだったが、横からその様子を見ていたエリーゼは小さい声で彼に耳打ちした。
「大丈夫、彼らの本名や領地は私が知っているわ。あなたは顔とファーストネーム、それから仕事の内容だけ覚えておいて」
その言葉に驚いてグランはエリーゼを凝視した。エリーゼは得意そうに笑顔で頷いてみせた。さすがは貴族の娘だ。
その様子にいくらか救われ、グランは心でほっと息をつき、すぐに気合を入れた。貴族の長い名前を覚えなくていいのであれば、あとは自分の得意分野だ。グランは自信有り気にダカン侯爵の友人達との話に臨んだ。まずは、王都での紅茶の事情を詳しく教えてもらおう。こちらを売り込むのはそれからだ。
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