銀貨の代わりにあなたに愛を
「それでは、私はそろそろこの辺でお暇させていただきますわ」
ひと通り商いの話を終えてようやく世間話に入った時、エリーゼの言った言葉に、グランははっとした。彼女が傍らにいることも忘れ、ダカン侯爵やその友人達との話に夢中になり、彼女に見向きもせず疲れたかどうかの気遣いひとつ見せなかったからである。彼女を棒立ちにさせたまま、一時間以上過ごしていた。
ダカン侯爵が言った。
「おお、これは失礼、マドモアゼル! 少々仕事の話をしすぎてしまったようだ」
「いいえ、私は全くかまいませんのよ。ただ、親戚の者と約束した時間になる頃なので、私はこれで失礼致します。皆さん、良い夜をお過ごしください」
エリーゼは笑顔でそう言うとお辞儀をして身を翻した。
「エ、エリーゼ、待ってくれ!」
グランが慌てて追いかけ、エリーゼの腕を掴んだ。
「す、すまなかった、俺は……!」
エリーゼは目をぱちくりさせてから、笑顔をグランに向けた。
「なにを言っているのよ、あなたは彼らと会うためにここに来たのでしょう。私のことは気にしないで。親戚の話はほんとうよ、そろそろマリーおば様の馬車のところへいかなきゃ。ああ、彼らの正式名は今夜中にリストにして、明日の朝一番に港町の事務所宛に送るわ。安心してちょうだい」
グランは首を振った。
「それは……それはありがたいが、そんなことじゃない、俺は君を長いこと放って仕事の話を……」
エリーゼは微笑んで、グランの頬に手を当てた。グランの頬も手袋ももう汚れていなかった。
「いいのよ、ほんとうに。今夜は素敵な夜をありがとう。おやすみなさい」
そう言うと、エリーゼは優雅にホールを出ていった。
グランはその後ろ姿を申し訳ない気持ちで見送っていた。と、すぐ後ろから声がした。
「いやいやいや! ラグレーン君、君も隅に置けんな!」
振り返ると、ダカン侯爵がにやにやとした笑いを浮かべている。
「私自身は、君が罪を犯した人間でも、改心して真面目に商いを行い、我々顧客の事を真剣に考えてくれている真摯な態度を買っている。しかし、どうやってあの高嶺の花の関心を得ることができたのかな?」
グランは小さく首を振り、視線を落とした。
「……わからないんです、私にも」

馬車の中では、マリー奥方がいびきをかいて寝ていた。会場から出てきたエリーゼに、待機していた侍女がほっと息を吐いてから言った。
「お嬢様! いつもよりずっと遅いので心配いたしましたよ。マリー様は疲れて眠ってしまっていますよ」
エリーゼは茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
「ごめんなさい、でも、今夜はとっても素敵な夜だったわ」
「はいはい、わかりましたから、早く乗ってください。すっかり遅くなってしまいましたよ」
そうして馬車は侍女とマリー奥方、そしてエリーゼを乗せて走り出した。
エリーゼは揺られる馬車の中で、ほうっとため息を吐いた。ほんとうに素敵な夜だったわ。
先ほどグランは、彼女を放っておいたまま仕事の話ばかりをして、長い間待たせてしまったとすまなそうにしていたが、エリーゼの方は全く怒りを感じていなかった。いいや、彼女は待っていたのではなかった。グランをずっと見ていたのである。
自己紹介の時、彼は緊張していたようだったが、商いの話となると一変した。貴族達にわかりやすいように言葉を合わせ、熱心に商売の説明し始めたのだ。王都の茶葉の質、伯爵家の商会で扱う茶葉の原産地の話、季節によって変化する栽培事情の話、割高の話、損得の話。市場に詳しくない貴族にもわかるような説明だった。そしてなにより、彼自身が陰気だと気にしている顔が生き生きと輝き、自信に満ち溢れていた。仕事の話をするグランはなんて魅力的なのかしら……!
うっとりと見つめるばかりであったエリーゼは、たとえグランに話しかけられても、すぐには返せなかっただろう。
エリーゼはマリー奥方の屋敷に着くまでずっとそんなことを考えていたのだった。


舞踏会から数週間後。エリーゼが王都を後にしてから、サロンで彼女とラグレーンの噂をきいたマリー奥方は、悲鳴を上げることとなる。
「な、な、なんですって……!?」
エリーゼがあの新聞沙汰になったラグレーンという男と!? 信じがたい話にマリー奥方はガタッと椅子から崩れ落ちそうになった。
ドルセット伯爵家とマリー奥方のブリュノー家は遠い親戚であり、かかわりも薄いものであったが、マリー奥方には恐れるものがあった。
「伯爵に……ベルナール様に、なんと言われるかしら……ああ、私が同席していながら! 私の信用が失われてしまうわ」
まさかすぐに疲れてしまってさっさと馬車に戻り、眠りこけていたとは言えまい。
「と、とにかく、噂が悪い形になって伯爵の耳に入る前に、私から手紙で伝えておかなければ……!」
マリー奥方は急いでペンを取った。




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