銀貨の代わりにあなたに愛を
夕食を終えるとアンドレはすぐにやる事があると食堂を去っていった。グランとエリーゼはそのまま席に残り、食後にお茶を飲んだ。
「ねえ、グラン」
エリーゼはカップに口をつけながら少し遠慮がちに言った。
「ほんとうのところ、どうなのか教えてくださらない? さっきは私はああ言ったけれど、もしもあなたがお兄様の下で働くのが嫌で造船所の方がいいのなら……」
エリーゼは気遣うような表情をこちらに向けている。グランは目を丸くしたが、小さく首を振った。
「いいや、造船所での仕事に未練はない」
グランは持っていたカップを置くとまっすぐ見つめてくるエリーゼに目を合わせて正直に言った。
「俺は……木材より数字をいじっている方が性に合う。正式に経済界に復帰できるとは思っていないが、その機会を与えてくれた君の兄上には感謝している。だが……」
顔を曇らせて目を逸らしたグランに、エリーゼは引き継いだ。
「お兄様の意図がわからなくて、不安なのね?」
グランは眉をしかめて頷いた。
「……なにか罠があるとしか思えない。こんな犯罪者の俺を嵌めたってなんの得にもならないのに」
エリーゼは少し考えたが、カップを置くと、「実はね」と切り出した。
「少し前にお兄様にきいてみたのよ、"なぜグランに商会の仕事を任せたの"って。そうしたら答えはなんだったと思う?」
グランは肩をすくめた。
「人手不足とか?」
エリーゼは笑って首を振った。
「いいえ、私もそう考えていたんだけど違ったの。お兄様はこう答えたのよ、"そうすれば、彼はお前に理由もなしに会えるだろう"って」
グランはぽかんとした。
「あんたと俺を会わせるためだって言うのか? 俺が雇われた理由が?」
「ええ、どこまで本気なのかわからないけど」
グランは全く本気にできなかった。冗談だろう、あの伯爵の嫡男がただそれだけの理由で動いているとは思えなかった。グランが納得いかないような顔をしていると、エリーゼは言った。
「お兄様が私の心を第一に考えてくれているのは確かよ。お兄様は私を政略の駒になんて全く考えていないもの。もしそうであるなら、二十一歳でまだ結婚せずに家にいるなんてことはできないわ」
「……あんた、二十一だったのか」
箱入りで育てられたからか、少々あどけなさの残るエリーゼをグランはしげしげと眺めた。
エリーゼは少し赤くなった。
「そ、そうよ! だから親戚からは舞踏会の誘いが多いの」
「だが縁談の話が来ないわけがないだろう。そもそも王の覚えもめでたい伯爵家なんだから、条件の良い話もあったはずだ」
エリーゼは口を尖らせた。
「だってどうしても嫌だったんですもの。お兄様に泣きついたら全部断ってくれたわ」
「それは……」
完全なシスコンではないだろうか。グランは言葉を飲み込んで言い直した。
「とにかくあんたの気に入るものは手に入れて、それ以外は排除してきたということだな」
エリーゼは笑顔で頷いた。
「ええ、そう。前にも言ったけど、私はずいぶん甘やかされて育ってきたわ。でも私のわがままで潰れちゃうような家ではないもの。……お兄様が、わざわざグランを嵌めるなんて、絶対に考えられないわよ」
グランは肩をすくめると立ち上がった。
ここで、彼女と話していても仕方ない。召使いからコートや鞄を受け取り食堂を後にした。エリーゼもその後に従う。
前回来た時は気がつかなかったが、長い廊下には肖像画がズラリと並んでいた。エリーゼは、グランがそれに視線を向けていることに気づくと鼻で笑うような言い方で言った。
「ここにあるのは、全部ドルセット一族に貢献した名のある人達なのですって。おかげで伯爵の地位なのにいろんなところで権力を持つことになったらしいわ。これ以上持っていても仕方ないと思うけど」
グランはエリーゼの言葉に驚き、死んでしまった彼らに少々同情した。
「その権力を持つために祖先がどれほど奮闘してきたのか考えないのか?」
グラン自身も、かつては権力を手に入れるために血の滲むような努力をしてきた。結局必死に足掻いて手に入ったのは金だった。それもすべてこの手からこぼれ落ちてしまったが。それほど権力というものはもろいと感じていた。貴族でない限りそれを維持するのは無理なのだと、昔落胆したことを覚えている。
エリーゼは肩をすくめた。
「私は貴族としての誇りはあるけど、権力を頼りにして生きるなんて、無意味な人生だと思うわ。いずれは自分の手から離れるものに固執するなんてばかみたい。そんなものがなくても人の上に立つべき人は、いつか必ず上に立つものよ」
グランは鼻で笑った。
「ほんとうに君はおめでたいな。人の支配下に生まれてみろ、誰だって上に立ちたいと思うさ。名高い貴族の家の娘だからそう言えるんだ。権力ありきの貴族の誇りだろう」
しかしエリーゼは、違うわと笑って首を振った。
「貴族としての誇りは権力から生まれるものじゃないわ。人から得る信頼よ。信頼こそ私にとってなによりの誇りだわ。貴族に限った話じゃない、国王だって、銀行家だって、商人だって、医者だって、肉屋さんだって、人から信頼を得ているから生きていられるの。だから、みんなそれぞれ誇りを持って仕事ができるのよ」
エリーゼは、グランから壁の先祖の肖像画に目を移した。
「私は一族が努力して王や領民達との間で信頼を培ってきたことを誇りに思っているわ。子孫の私達はそれを大切に受け継ぐべきだとも教えられてきた」
グランも肖像画を見ながら、エリーゼの言うことにも一理あると少し感心していたが、「ふん」と鼻を鳴らすと、踵を返すと廊下をすたすた歩き出した。そして口を歪めながら言った。
「信頼なんてものは偽善だ。俺は経験上そう思う」
エリーゼはそんなグランに目をぱちくりさせたが、急に笑い声をあげて彼の歩いている方に駆け寄った。
「なに言ってるのよ、あのお兄様からもうすでに信頼されているじゃない! だから経理を任されたんでしょう、偽善なんかじゃないわ」
「あれは信頼されているとは……」
「グラン」
エリーゼはグランの前に出て彼の歩みを止めた。もう玄関はすぐそこだ。
エリーゼは大真面目な目をして言った。
「まずはあなたがお兄様を信じてあげて。それができないなら、私を信じて。私はあなたを陥れたりなんかしないわ、誓ってね」
グランは口をへの字に曲げてエリーゼの真剣な表情を見つめた。初めてエリーゼと会ったあの日も、彼女は今と同じような顔をしていた。
短剣を持って暗殺を企んでいた自分を、役人に突き出すこともせず、ただ説得しようとした。自分が周りの人間に非難されることなど気にもかけずに、全力で復讐を止めてきたのだ。そしてまた、彼の頭にあの背中を撫でてくれた優しい手が蘇った。
グランは、目を逸らして小さい声で言った。
「あんたのことは……信じてるよ」
その言葉に、エリーゼはみるみるうちに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。とにかく今はがんばってみて。事務所にはときどき私も行ってもいいでしょう?」
「あいかわらず暇だな、茶会に行けよ。貴族の娘ならそういうのは大事だろう」
グランが呆れたように笑うと、エリーゼは肩をすくめた。
「まあ、それは……気が向いたらね。事務所でお茶を淹れてあげるわ、私、とっても上手に淹れるんだから!」
グランはわかったわかったと小さく笑いながら伯爵邸を去っていった。
エリーゼはその後ろ姿を見つめながら小さくつぶやいた。
「がんばって、グラン……」
< 9 / 29 >

この作品をシェア

pagetop