蜜月は始まらない
「そういえば……“アレ”は、もう準備できたのか?」



ふと思い出したように尋ねられ、一瞬首をかしげかけるがすぐに何のことか思い当たった。

俺は小さくうなずく。



「ああ、はい。こないだ受け取って来ました」

「おー、よかったな」

「その節はお世話になりました」



華乃と一緒に暮らし始める少し前。

まだ寒さが残る春に、俺は少しの恥をしのんで“あるもの”についての情報提供をこの先輩に願い出た。

あんなに派手なパフォーマンスでプロポーズをしたこの人なら、絶対に用意したであろうソレ。

尚人さんは驚きながらもふたつ返事で了承してくれ、結果俺は先日無事にそのブツを手に入れることができたのだ。



「別に俺は、自分が買うときに検討した店の名前とかどこにこだわったとか教えただけだし。いやでも……はー、おまえにあんな頼みされる日が来るなんてなあ……大きくなったなあ、錫也」

「誰目線のセリフですかそれ。俺尚人さんに育てられた覚えは……多少ありますけど」

「ほんと良い子だな、おまえは」



会話の流れで頭を撫でられそうになったところを、なんとかかわす。

この歳になって、しかも同性の先輩に頭を撫でられるなんてのは、普通に恥ずかしいから勘弁してもらいたい。

けれどこの久我尚人という人は、あんな相談を持ちかける=俺に“そういう”相手がいると知ったにも関わらず、こちらから正式に紹介するまでチームメイトの誰にもそれを言いふらすようなことはしなかった。

一本筋が通っている、かっこいい人だと思う。人間的にも野球選手としても、素直に尊敬できる先輩だ。

もうすぐ、新幹線は目的地に着く。本拠地のある都内のターミナル駅だ。

地方球場でのデーゲームを終えて、東都ウィングスの面々は明日の東都ドームでのナイターに向けホームへと戻って来た。

……あと、少しで──数日ぶりの、愛しい彼女に会える。

柄にもなく逸る気持ちを抑えるように、俺はドリンクホルダーに置いたペットボトルへ手を伸ばした。
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