蜜月は始まらない
……わかっていたはずだった。

自分は彼に、“奥さん役”としてスカウトされただけ。

特別な感情を抱いてしまっても、辛くなるだけだって。

酔って私にキスをした錫也くんは、完全に誰かと私を間違えていた。

きっとその相手が、この写真に一緒に写っている日比谷モカさんなんだ。

錫也くんが今回の遠征に出発する前、私に残した言葉を思い出す。



『遠征から、帰ってきたら──大事な話が、ある』



もしかして、あれは……モカさんの、こと?

その瞬間、握りしめたままのスマホが電話の着信を知らせて、ビクッと身体を震わせた。

表示された【錫也くん】の文字に、私の心臓は嫌になるくらい早鐘を打つ。

硬直してただひたすらディスプレイを見つめていると、やがて着信音は鳴り止んだ。

錫也くんからの電話を……無視、してしまった。

とたんに罪悪感が襲いくるけれど、それとはまた別の理由でも胸が痛み、涙がにじむ。

ああ、もうダメだ。私は彼の前で、物わかりのいい同居人のままじゃいられない。

もう、耐えられない。彼が帰ってくる、この家にはいられない。

きっと、錫也くんには本命の彼女との関係を公にできない事情があって、私を隠れ蓑の奥さんに据え置こうとしたのかもしれない。

じゃなきゃ彼ほどの人がどうしてこんな、冴えない普通の女とお見合いなんてするだろう。

乱暴に手の甲であふれる涙を拭い、ソファから立ち上がる。

もつれそうになる足を動かして自室へと向かった私は、クローゼットから小旅行用のボストンバッグを取り出し、中に2、3泊できそうな分の着替えや化粧品類を詰め込んだ。

それとは別に、貴重品類が入ったショルダーバッグも肩にかける。

とりあえず、今は身軽に動けるようにこれだけ。

あとのものは、後日彼が家を出ている間に取りにくればいい。
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