蜜月は始まらない
黙り込む私を、根本さんが見つめている気配を感じる。

そして不意に「ふーっ!」と声に出したかと思うと、元気よく立ち上がった。



「ま、とりあえずランチ行きましょランチ! こないだおいしそうなお店見つけたんですよ~せっかくなんで花倉さん付き合ってください!」

「う、うん?」

「空腹は全生物の敵ですからね。おいしいものでおなかが満たされたら、きっともうちょっと気分も上向きになりますって!」



戸惑って顔を上げた私に、根本さんが明るく断言する。

そのにっこり笑顔を見ていたらなんだか気が抜けて、つられるように頬が緩んだ。



「……うん、そうだね。ありがとう根本さん」



彼女の家に逃げ込んできてから、今日初めて笑ったかもしれない。

私の言葉を受け、根本さんはうれしそうな表情でひとつうなずいた。



「よし! そうと決まれば、着替えてメイクしまっす!」

「根本さんのすっぴん、初めて見たけどそのままでも充分かわいいよ」

「やだ花倉さんってば~お上手ですね! お世辞でもうれしいです!」

「あはは、本心だってば」



まるで職場での休憩時間と変わらない空気で、楽しく会話する。

根本さんのご実家にいる異常事態だというのに、不思議な感じだ。

きっと彼女自身が、どこでだってこんなあたたかい空気を生み出せる才能を持っているのだろう。

改めて、根本さんと知り合えてよかった。
前の職場で一度は最悪の気分を味わったけど、少なくとも彼女は、その後の私の生活を明るいものへと変えてくれたひとりだ。

陽気なトークを絶やさずに身支度を整える根本さんをそばで待ちながら、私は心の中で深く感謝するのだった。
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