蜜月は始まらない
よし。ささーっと、通り過ぎちゃおう。どうせすぐ、自分の部屋のドアだ。

決意を固めた私は、すぽっと頭からワンピースを被る。

ドアを開ける瞬間、今さら彼にすっぴんを晒すことに対する羞恥心が出てきたけれど、思いきって引き戸をスライドさせた。



「お……お風呂いただきました~」



一応ボソボソと声はかけつつ、なるべく足早にリビングを横断しようとする。



「うん」



錫也くんは、ダイニングテーブルに広げたノートを熱心に眺めていた。

私に返事をしながらも、その視線は手もとのノートから離れない。

ああ、あの光景は高校時代、休み時間の教室で何度も見たことがある。

対戦相手の情報が事細かに書き込まれた、錫也くんお手製の戦略ノート。
特に試合が近くなると、よく野球部の人たちが彼の席の周りに集まって一緒に覗き込んでいた。

……プロになっても、同じように続けてるんだ。

あの頃の面影をこんなところにも見つけたのがうれしくて、つい笑みがこぼれた。



「あ、華乃──」



不意に彼が、くるりとこちらに顔を向ける。

懐かしい光景に気づいて無意識に立ち止まっていた私は、完全に隙を突かれ固まった。

錫也くんも、私を見て動きを止める。
かと思えば急に立ち上がり、その足が椅子にぶつかって何がどうなったのかガターン!と派手な音をたてながら椅子とともに彼自身もひっくり返ってしまった。
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